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(心が、壊れてゆく・・・)



恐怖と絶望と憎悪とが、ぐるぐると巡る。
もう、嫌だ。
何もかもが嫌で、嫌でしょうがない。
あの男へとすべての感情が向かう。
止められない。

(助けて・・・)
誰か、誰か、誰でもいいから、助けてくれ。

・・・もう、ここには居たくない。
もう、何も考えたくない。



あの男の手には、堕ちない。
そのためならば、何でもするから・・・。
だから、助けてくれ。









空ろに、カーテンが揺れるのを見ていた。
日の陰りから、夕闇がせまっているのは分かった。
日がすべて落ちてしまえば、
また、佐伯が帰ってくる。
(嫌だ…)
恐怖で、身体が震えた。
(嫌だ…)

もう、何も、考えたくない。
これ以上、何も。

かちゃり。
玄関があく、音がした。
びくりと身体が震える。
まだ、帰ってくる時間ではないはずなのに。
冷や汗が、どんどん出てくる。
「・・・あっ・・・」
怖い。
怖くて堪らない。
嫌だ。
震えがどんどんと広がる。
苦痛に歪む、顔。
「嫌だ・・・来るな・・・」

必死で、部屋のドアノブから目を逸らす。
ドアノブが回る。
人が入ってくる気配。
全身が総毛だつ。
(嫌だ。嫌だ。嫌だ)
痩せてしまった体で必死に身体をばたつかせた。
拘束具をはずそうと抵抗するが、ただ自分の身体を赤く傷つけるだけだ。
(嫌だ。来るな)



「こんばんは」
しかし、耳に入った声は、予想していた男のものではなかった。
ゆっくりと、頭を上げる。
そこに立っていたのは、黒い中折れ帽子を被り、真っ黒なコートに身を包んだ、奇妙な男だった。
三つ編みにされた金髪の髪が背中で揺れている。
怪しいことこの上ない。
(・・・誰だ?)
「・・・御堂、孝典さんですね」
人の名前を呼んだ。
びくりとして、身を縮こまらせる。
「・・・誰だ?」
今度は口に出して告げた。

「私は、佐伯克哉さんの知人のものです。
そうですね、Mr.Rとでもお呼び頂ければ」
(・・・佐伯の知人?)
佐伯克哉の名前に、どうしようもなく動揺する。
またあいつは新たな責め苦を考え付いたとでもいうのか。
冷たい汗が、つうと身体を流れた。

「随分と酷いことをされたようですねえ。
身体中が鞭のあとだらけじゃないですか。
痣も、こんなに体中に散って。
お可哀想に」
そういいながらも、同情するそぶりなど一切見せず、静かに微笑んだ。
手袋を嵌めたままの手が、御堂の頬をそっと撫でる。
「・・・何をしに来たんだ」
昨日散々啼かされたから、喉が枯れている。
ごほごほ、と咳き込んだ。
Mr.Rと名乗った男が、御堂のあごをそっと持ち上げた。



「・・・助けてあげましょうか?」
にこりと微笑んで、そういった。
(本当に?)
「もう、何も考えたくないんでしょう?
あなたがかってお持ちで失ったもの達のことも。
自分自身のことも。
厭らしく快楽を求めているのに素直になれない自分のことも。

・・・佐伯克哉さんのことも」
すべてを見透かしているかのように、Mr.Rが心の胸のうちを暴く。

「・・・どうして」
誰何の声を投げる。

「私は貴方のことを案外気に入っているのです。
その高慢な表情。
あの御方がこれだけ入れ込んでもなお屈服しないその美しく気高い魂。
でも、このままでは貴方は自分の理性と欲望の狭間で壊れてしまう。
それをみすみす見逃すのは、もったいない。
本当は、
もうはちきれそうにイキたいのでしょう?
猥らに、喘ぎたいのでしょう?
でも、貴方は、佐伯克哉に屈服するくらいなら、心を壊したほうがましだ、そう思っている」
Mr.Rの笑みが、妖しく歪む。

「私と共に御出でなさい。
そうすれば、あなたを縛りつけるすべてのものから解放される。
もう、何も考えなくていいのです。
あなたはただ、己の本当の欲望を貪っていればいい。

貴方を苦しめる、すべてのものから解放してあげましょう。
すべてを、忘れておしまいなさい。
さあ」



Mr.Rの妖しく光る琥珀の瞳に囚われる。
「助けて・・・くれるのか?」
思わず、そう問いかけていた。


「ええ」



「貴方の、本当の望みを、かなえてあげる」



御堂の意識は途絶えた。













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