闇は、すべてを覆い隠すほどに深い。其処が、外なのか、それともどこか部屋の中であるのかさえも判らぬほどの闇の中で、闇そのものであるかのような黒い装束の男は、明るい日の元にいるかのように滑らかに、音も立てずに歩いてゆく。本来彼の背を飾る長い長い金の髪でさえ、この暗がりの中では光を受け煌くことはできずに闇に溶けている。美貌は闇のうちで、密やかに笑みを浮かべる。人には、その姿さえ見ることは出来ないほどの闇の中、闇の主は急ぐでもなく、淡々と歩みを進めていた。彼のまわりで、時間は永遠のように長く、そうして悲しいほどに淡々と過ぎ去っていくが、あいにく男は悲しいという感情を持ち合わせては居なかった。

遠い昔、彼に与えられた仕事を淡々と、そして粛々と果たすために彼は今日も、闇に紛れ捜し歩く。

捕食すべき、甘美なる器を。

 

 

 

 

 

 

 

Ruin

 

 

 

 

 

 

 

 

「おや……」

闇の隙間に、赤子が泣くような叫びを耳にして男は立ち止まった。それは、闇を震わすほどの悲しみ。その美しい旋律に、男は目を細め、うっとりと聞き入る。

何かに傷ついたのだろう。

きっと、彼は誰かに傷つけられて、悔しくて悲しくて辛くてたまらないのに違いない。

それなのに、きっと現実世界では泣くことも出来ずに、歯の奥で噛み締めて磨り潰しているのだろう。

けれど、心の中は絶望でいっぱいだ。

痛みに耐えかねて、涙を流し、絶叫している。

それが、音となって男の鼓膜を震わせている。

(ああ、なんと美しい声でしょう)

なんの混じりけもない。そこには、男の好きな類の感情だけがない交ぜに和声を奏でていた。

出来れば、もっと聴いていたいという想いにも駆られたが、それよりも声の主が気になって男は闇から一歩足を踏み出した。

途端に世界は、日の光を取り戻して、夕べの明かりを男へと照らす。その光の下に晒されようとも、男は眉根一つ顰めずに、日の光の下、人の形を取った。

そこに居たのは、まだ年端もいかぬ少年だった。それを見届けてから、ようやく回りを見渡せばそれは桜の花びら満開の並木。闇そのものにも似た男が立つには多少牧歌的過ぎるきらいのある風景に、人が絶望に涙するには似つかわしくない健康的な土の匂いを感じて男は目を細めた。夕暮れ近く色付いた世界の中、草も生えぬ土の上に少年は座り込んで居た。まだ、熟れ切っていない果実は、やや色素の薄い髪や目をしている。その白い顔の上を涙は流れては居ないが、その胸のうちは、赤く裂け傷を流している。鋭利なその傷すらも、美しく、男は人知れず微笑を見せた。

少年の頭の中を覗けば、まだ起こったばかりの過去も、感情も生々しく透けて見える。

裏切り。

憎しみ。

深い悲しみ。

怒り。

失望。

慟哭。

そして、自分自身に対して芽生える、不信と、変化への切望。

(これは面白い)

かように酷い裏切りの果てにも、少年は相手への復讐よりも、自分を変えることをを願っている。それほどまでに、その傷は、少年には痛過ぎた。

愚かなほどに高潔な魂は、肉を裂かれるほどの痛みにもなお、傷一つなく輝かしく煌いている。眩い光は、男の身を焼くほどの強さを持って少年の身のうちに息づいていた。取り出して頬ずりしたいほどの赤く爆ぜる心臓も、痛みに震える内臓も、すべてが愛おしく思えて男はまたうっすらと笑みを浮かべた。

それはまるで恋のように甘く、捕食したいという欲求を沸きたてる。ひさしぶりに味わうその感触を、手の内で転がしながら、男は少年に声をかけた。

「泣いていらっしゃるのですか?」

ふいにかけられた声に少年が顔を上げた。驚きを一瞬見せたが、ひるむことなくまっすぐに見つめてくる。自分が何者なのか探りとろうとする瞳を、男は好ましく思った。

「泣いていらっしゃるのですね」

見上げてくる少年へと声をかける。

「泣いてなんかいない」

はっきりとした否定の声があがり、そうしてまた男の裏の真実を暴き出そうとする瞳が、男を射抜く。赤剥けた精神は疲れ、男の存在を迷惑だと如実に語っていたが、男は気にするそぶりも見せず、少年を見下ろしている。

男が、少年の裏に透けて見える彼の事実を唇からつむぐと、少年はその幼い顔に驚愕を浮かべた。第三者に言われたことで、思い込みかもしれない、という淡い期待が裏切られ、さらに少年お心を抉るのを見て、男は心底から悦びを覚える。

「新しい自分に……」

少年自身も気付いていないらしい小さな願いを口に出して見せ付けてやれば、少年は素直にそれを飲み込み、そうして自覚してしまう。

自分の手の内でいとも簡単に踊る魂に、男は微かな愛情と、握りつぶしたい衝動に駆られた。自分の感情がこんな風に期待に擽られるのはとても久しぶりのこと。胸の中に沸いたその企みを気取られぬように、男は金色の瞳を細め、貼り付けた笑みを崩さずに語りかける。

「あなたは、そんなことが本当にできると思いますか?」

すべてを変えて、自分を隠し、生きていく。あなたはそんな愚かなことを、本当にするのですか? 自分を傷付けた、愚かな愚民達のために。

この高貴なる魂をしまいこんででも、つまらなく生きていくのですか?

それでも少年は、それを選ぼうとしているようだった。

自分のうちの宝石を手放してでも、もう、傷つきたくないと。傷つけたくないというならば。そう、本当に少年が願うのならば。

 

 

 

 

 

ならば私がさらっていきましょう。

土の匂いのするこの吐き気のするような日常から。せっかくの輝ける魂を曇らせようとするくだらない嫉妬ややっかみから。たかが在り来たりな傷一つに苦しむ貴方自身のうちにも眠る、ひ弱さから。

さらっていきましょう。

 

 

 

 

 

我が王を。

 

 

 

 

 

手渡された眼鏡を握り締めて、少年は願う。

願ってはならない、願いを。

相手を間違えた少年の願いは、その眼鏡のなかに吸い込まれていく。記憶も、感情も、すべてが消えていく。

そうして男は少年から、大事な大事な魂の片割れを、さらっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは?」

気付けば、そこは重々しい扉の前だった。いつのまにそこに来たやら、どうやって来たやら、何一つ思い出せない。ただ一つ分かっていたのは、先ほど会ったばかりのその男の差し金で自分はここにいるということ。だから、自分の後ろに立つその男に向かって、振り返りもせずに克哉はそう聞いた。

「貴方のその果て無き渇望は、本当に美しい……」

男は、先ほど並べたのと同じ御託を並べるだけで、問いに対して答えようとはしなかった。克哉は小さくため息をついて、迷うことなくその扉を押した。ぎぎぎ、蝶番が錆びているのか、きしむような音がしたわりには、扉はあっさりと開く。自分の上を見やれば、案の定黒ずくめの男が扉を押していた。克哉の見上げる目線に気付き、にっこりと微笑む。

「ようこそ。自分自身に捨てられた幼子よ」

そう言うと、黒いマントが少年の身体をすっぽりと覆い、顔だけを除いてすべてが闇色の布のうちに隠された。男の手が自分を抱きしめるように身体を包むが、何故かその手の重みは感じられても、何一つその手の温度は分からなかった。熱いのか、ましてや冷たいのか、さえも。

マントの中で男に捕まったまま、克哉は扉の奥へと一歩一歩歩みを進めていく。履きなれたローファーが、絨毯へと深く沈みこむ。絡めとられそうなほどに深く柔く沈む足に、思わずこけてしまいそうになるが、そっと男の手が自分を支えた。

「ここは、どこだ」

もう一度前を向いたままでそう、問う。

「見世物小屋ですよ」

「え?」

「人の欲望の住まう館」

「何……それ」

「貴方の家です」

三度尋ねれば三度、違う答えが返ってくる。からかわれたのだと思い、克哉の機嫌は悪くなる。

「もういい」

しかめ面をしてそう言うと、声色から機嫌を損ねたことを知ったのか、男は片方の手をす、と頬までなぞらせて、刻まれた眉間の皺へと触れた。

「ここは、どんな欲望も許される、ただ唯一の桃源郷です。そして貴方は、この世界の王となるためここに来た。あちらの世界は貴方を拒絶しましたが、ここは、貴方を歓迎します」

拒絶、その言葉に克哉の言葉はずきりと痛んだ。その拒絶は、たった数時間前に起こった事実。その傷は未だ、克哉の中で赤剥けた傷をさらしたままだった。

「貴方は、類まれなる素質を持った御方です。俗世は貴方に醜い嫉妬を向けましたが、貴方がそれに傷つく必要はない。我が王、私は貴方に仕える忠実な僕。貴方の喜びのため足元に跪く、貴方だけの奴隷。まだ磨かれぬその魂を磨き上げるため、私はこの身のすべてを捧げましょう」

ねっとりとした声が、耳元に注がれる。突然、温度などなかったはずの手が、身体が熱を帯びる。優しく包まれるような感触に、克哉の体はぞくりと震えた。

「お前なんて、必要ない」

美辞麗句を並べ立てる声の裏に、何の心も入っていないことを感じ取って、克哉は拒絶して、その手から逃れて更に前に進もうとする。が、手はぴくりとも外れなかった。

「それでも、後ろへと戻ろうとはならさないのですね」

いとおしむように、克哉を腕の中に閉じ込めたまま男が言う。克哉はじっと唇を噛んだ。幼い心にも、もう帰る場所などないことだけは分かっていた。思い出すようなことを言われるたびに、頭の中には嵐が巻き起こる。自分を裏切った少年の顔が、醜く歪んで笑っていた。

「貴方の部屋にご案内します」

そう言って、男が促すがままに、長々と続く館の中を二人は歩いていく。廊下は学校の廊下よりも広く、いくつもある部屋の扉はすべて閉ざされていて、中に何があるのかは分からなかった。そのいくつかを目で追い、耳を澄ませ、何かヒントが隠れていないかと克哉は神経を尖らせたが、何の音も聞こえはしない。ただ、鼻に何かの匂いが微かに届いた。それは何か色々なものが交じり合ったような感じがして、何の匂いかは分からなかった。

「ここは、全部お前の家か?」

やや高いキーの声が、男に問う。

「ええそうです。そうして、貴方が一言望めば、すべて貴方のモノでもある。あの一つ一つの扉の向こうには、人々の欲望が開け放たれている。貴方にも、欲望があるでしょう?貴方が解き放ちたいと願えば、どこかの扉が自ずと開かれる。貴方が、欲に塗れた瞳で何かに向かうところを想像するだけで、私などは悦楽に浸る思いがしますよ」

男の言っている意味は半分も分からなかった。得体の知れない扉の向こうを望む気持ちは今の克哉にはなかった。胸の中で荒れ狂う嵐にこれ以上向き合うには、幼い克哉は疲れ切っていた。

「まずはお部屋に行きましょう。貴方の今の一番の望みは、何もかもを忘れてゆっくりお眠りになることのようですから……」

瞼が重くなる中、克哉はいつしか自分を抱く腕に身体を預けて、ゆらゆらと揺れていた。

「傷が癒えたなら、いくらでも貴方の中のその獰猛な炎を解放なさい。そのための贄は、いくらでもご用意しましょう……」

耳元に男の声を聞きながら、克哉は部屋を見る前に、眠りの中に堕ちていった。

 

 

 

目が覚めればそこは、ベッドの上だった。うとうととした頭のままでゆっくりと瞬きをする。昨日まで自分が毎日寝ていた子供用のパイプベッドとはまったく違う、埋もれてしまうかと思うほどのふかふかのベッド。自分ひとりで寝るには大きすぎるほどの、大きなベッドに、克哉は心沸き立って、ころころと転がった。身体が一周してもまだベッドから落ちないことに微かな嬉しさを覚えて、克哉はぽかんと口をあけたまま天井を見上げた。高い天井は天蓋がベッドを覆うようにかかっている。右手でかかるレースを玩ぶ。さらさらと滑る布地の手触りが気持ちよくて、しばらく玩んでいた。

眠気が、ゆっくりと覚めていく。

(ここは、どこだろう?)

ようやくその疑問にたどり着く。

ベッドに倒れたままで、周りを見渡した。天蓋を、そっと手繰り、隙間からベッドの外を見る。それは広い広い部屋だった。

部屋にあるのは、大きな箪笥とソファとテーブルと本棚。ベッドからもぞもぞと降りて本棚を覗いてみるが、古びた洋書ばかりで自分が読んで面白そうなモノは無かった。黒い革張りのソファに座ってみる。家のソファとはまるで違った高級そうなソファは、座れば埋もれてしまうかと思うほどに身体に馴染んだ。座ってぼけーっと天井を見上げていると、ドアをノックする音が聞こえて克哉はそこではじめて部屋にドアがついていたことに気がついた。

「目覚められたのですね」

入ってきた男はそう言って優しく笑んだ。その姿をソファ越しに仰のいて見る。

「ここは?」

何度も繰り返した質問をまた繰り返す。

「貴方のお部屋です。欲しいものがあればなんでも仰ってください。用意させましょう。ああ、テレビや電話機など下界とつながるようなものはご用意できませんが、それ以外でしたらなんなりと。最高級のモノをご用意させますよ」

(テレビはないのか……)

内心、少しがっかりした。

「大丈夫。ここには、テレビなんかよりずっと素晴らしい悦楽がいくらでもあります。貴方ならきっと、すぐにその楽しみを理解なさるでしょう」

心を読んだように男はそう言って、克哉の元へと歩みを進めた。

「貴方のお望みは、なんですか?」

恭しくソファの後ろへと跪いて、仰のく克哉の耳元にそっと囁きかける。克哉は長考すると、興味なさげに目を閉じた。

「興味ない。俺の疑問一つにすらまともに求めている答えをくれないあんたのくれるものなんか、どうせろくなもんじゃないんだろ」

そう言うと、つまらない、というように欠伸をした。幼い両の手がうん、と伸びをする。ぷるぷると震える手が男の頬に触れた。男は革の手袋に包まれた手を、克哉の手にそっと重ね、そのまま頬ずりをした。人とも思えぬ冷たさと、不思議なほどに柔らかみを感じない頬に触れぎょっとして克哉が身体をソファから起こし身を捩って手を引こうとするが、その手はびくともしない。

「申し訳ございません。今はここのすべてをお伝えすることは、出来ません。けれど、貴方がこの館にてお過ごしになり、我が王となるにふさわしく成長した暁には、この館のすべての秘密が、貴方の手に堕ちることでしょう」

手に頬ずりをしながらも、男の表情はまったくの変化を浮かべない。薄く笑んだ表情は、生き物とは思われぬほどに硬質に、一瞬も崩れることがない。それが、憤怒であれば、せめて無表情であればまだ安心できるのに、そう思わせるほどに張り付いた笑みは完璧に美の形を保っていた。しばし、じっと睨みつける。時間が過ぎれば、その虚勢の皮がはがれるのではないかと。けれど男は時間を凍らせたかのように、何の反応も浮かべることが無い。ただ、じっとりと汗ばんでいく自分の手の平だけが、時計の針の代わりに時が過ぎることを伝えた。

「手を、離せ」

ようやく言った言葉は、震えや怯えを隠そうとして若干年齢に似つかわしくない低さで出た。言われた途端に顔は、ようやく時間を取り戻してにっこりと微笑みなおす。

「御意のままに」

言うと、男の手がそっと頬から外れ、そうして名残惜しげにゆっくりと手の平からも外される。克哉の手は汗に少し暖かく濡れているのに、革の手袋は最後までさらりと乾き、冷たかった。

「お前の、名前は?」

汗ばんでしまった手を服に擦りつけながら克哉が聞いた。男は無言のままに立ち上がると、克哉の腋に手をやり、軽々とその身体をソファから持ち上げる。自分の周りに見たことがないほどの高身長に持ち上げられた身体は高く浮いた。

「私のことは、Mr.Rと、呼び下さい」

(みすたー、あーる)

口の中で復唱する。

「呼びにくい。本当の、名前は?」

宙に無様に浮きながらも、克哉はしかめ面を外さずにそう悪づいた。幼い王の小さな反抗にくすりと笑うと、男は、

「……そうですね。では、ruin、と」

「ルイン」

今度は、声に出して復唱する。耳慣れない言葉だったが、目の前の黄金の髪を持つ人間が日本人ではないと言われても特に不思議はなかったから、克哉はまたその名を呼ぶと、こくりと頷いた。

「ルイン、暇だ。なんか、面白いことない?」

Mr.Rの腰の辺りの位置で足をぶらつかせたまま最初の欲望を口に出した克哉に、Mr.Rは首を傾げると、

「では、貴方に人間の三つの欲望のうち、貴方のまだ知らない最後の欲望を教えてあげましょう」

そう言うと、Mr.Rは克哉の身体をそっと運び、ベッドへと横たえる。

「何?」

柔らかくベッドが克哉の身体を包む。その上に、ぎし、とMr.Rが圧し掛かる。右手が帽子を取ると、柔く編まれた黄金の髪がこぼれて克哉の視界を覆った。

「な、に?」

張り巡らせた蜘蛛の糸に囚われた哀れな獲物のように、身動きの取れない身体で間近に迫る男の顔を見上げる。

「大丈夫ですよ。取って喰ったりはしません」

そう言うと、唇が柔く重なり、そうしてMr.Rの手が、克哉の体の上で、

踊った。

 

 

 

Mr.Rの上半身が、ゆっくりと克哉から離れる。克哉は呆然と、今まで圧し掛かっていた男の顔を見上げた。Mr.Rは革手袋の掌についた薄い精液を、べろりと舐め上げる。甘いソフトクリームでも舐めるような舌に、克哉は目を離せないままにじっと見つめていた。嚥下する喉仏の動きまでは、その首を覆うトレンチコートに阻まれて見えない。上気した頬に、Mr.Rの革手袋の指がそっと這う。今まで、あんなに熱く克哉のモノを撫でていた手袋の先は、何故かひんやりと身体の火照りを冷やした。克哉の服は乱れ、上着は胸までたくしあげられ、ズボンはジッパーを降ろされたままになっている。

「人にされるのは、気持ち良かったでしょう?」

そう言って、まるで善行でもしたかのような、曇りのない笑みを見せる。克哉は、乱れた息の下、何も言えずに自分の身体の上に覆いかぶさるMr.Rを睨みつけた。

「この館は、こういう場所です。お気に召しませんか?」

ならば、帰ればいい。そう、瞳が語る。帰る場所などどこにもないと分かっていてそう言うのが分かるから、克哉はぎり、と奥歯を噛む。Mr.Rはようやくゆっくりと身体を起こすと、解けてしまった黄金の髪を両の手で束ねて背の後ろへと垂らした。ようやく視界が開けて、男の後ろに天蓋の裏地の血のような赤色が見えた。

「貴方が望むならば、いくらでも最上の快楽は貴方のモノになる。被虐の喜びが欲しいなら、いくらでも鞭打ってあげましょう。加虐がお好みなら、貴方のことを何でも聞く奴隷でも、いくらでも嬲ることの出来る生贄でもなんでも捧げましょう。優しいセックスに溺れたいのならば、母のように慈しみ深い女を。老若男女、貴方のお好みの奴隷を、ご用意致しましょう」

ぎし、Mr.Rがベッドから降りて、ベッドの脇に置かれた帽子を手に取り、また深く、被りなおした。そうして、ベッドの脇から克哉を覗き込んで、逃げられないようにと両の手が克哉の頭の脇へと置かれる。

「貴方は、何をお望みですか?」

革手袋が、もう一度、露になったままの腹を撫で上げた。冷たい感触に、身体がびくんと跳ねる。ぞわ、と背筋を電気が走った。

「今は、お前が消えることを」

吐き捨てるように言うと、Mr.Rはそれでも笑みを浮かべたまま、闇に紛れて消えた。

Mr.Rの気配がこの部屋のどこからも消えたことを確認して、ようやく克哉は息を吐き、緊張した身体をベッドへと沈めた。のろのろとした動きで、肌蹴た服を元に戻す。Mr.Rの手がすべてを受け止めたから下着はやや汗ばんではいたが、出したものに汚れてはいなかった。

「畜生……」

まるで、旧友に嘲笑われた時の様なべったりとした不快感に心が脈打つ。明らかに自分より年も上で力も強く、人とも思えない力を持ち自分を好きなように玩びながら薄く微笑み続けた男の顔が、脳裏に焼きついて離れない。自分の裏にあるカラクリをすべて知ってそうして笑うその笑みが、忘れたいけれど忘れるにはあまりに間近過ぎた出来事を思い起こさせた。

男の手でもたらされた快楽の強い刺激の果てに、ぐったりとなった身体がいつしか眠気を誘い、苦い想いを抱えたままでいつしかうとうとと、目を閉じていた。

(ようこそ。自分自身に捨てられた幼子よ)

Mr.Rの言葉が、眠りに紛れる思考の中を響いて、溶けた。

 

 

 

それは、つい、昨日まで自分が居たはずの教室の中。机がいくつも並ぶが、自分だけがまだ席に座り、大半のクラスメートはすでに帰宅し、教師が自分の席の前に立ち、数人の自分を積極的に苛めていたメンバーがその後ろを取り囲んでいた。そこにあるのは、ありふれていたはずの失われた風景。ありふれていて、そうして憎んでいた唾棄すべき日々の欠片。

多分、これは夢だ。

その最中でありながら、克哉は冷静にそう判断した。

何故なら世界がぐにゃぐにゃと歪み、端にいけばいくほど輪郭は歪み、色を失っていくから。自分の見つめた先だけは極彩色に見えるのに、その他のすべてのものは捩れて、形を成さないのっぺらぼう。目に浮かぶのはいくつもの人を嘲笑う残虐な子供の顔だけで、一番真ん中にいたはずの教師の顔だけはつるりと卵のようになんの特徴もない。子供達は、子供らしく先生の周りにべたべたとスキンシップをしながら、女王蟻の羽を毟る時のような純粋な残酷を目のまわりに乗せている。教師は、薄ぼやけた頭をこちらに向けて、腹をぼりぼりと掻き毟りながらその醜い巨漢を揺らしていた。きらきらと目を輝かせて、躍動感さえあるほどに素直に自分を苛める子供達の顔だけがモノクロ世界に浮き上がるのは、多分何度も何度も嫌になるほど毎日目の前にあったものだから。教師の顔が見えないのは、きっと思い出したくもないほどに醜悪だから。心のどこかが、それを消した。くたびれた社会の歯車は、後ろに悪意を持った人間が多数居ることには気付かない。押されたら回る。ただ単純にそう言う仕組みで出来ていて、そういう仕組みで出来ている自分を恥じることすらしない。子供にも、悪意があることなど、小さな脳みその記憶には残っていない。

 

(佐伯君は、もっと、協調性を、持ったほうがいいと思うんだなあ)

 

目の前の豚が、気持ち悪い語尾の延ばし方で、教師の立場を利用して愚かな言葉を押し付けてくる。大方、また根も葉もない陰口を、あっさりと飲み込んで租借もせずに鵜呑みにしたのだろう。肉に埋もれた目は小さく、人生の中で学校という小さな枠組みしか知らずに育った純粋培養の白豚には、まっとうな物差しなど何一つ含まれては居ない。子供などは所詮薄っぺらく、いまだ理性も発達しない未熟児なのだと思い込んでいるのがありありとその声から分かる。(頭がいいとはいっても、所詮子供だ。大人の社会の大変さなど、何も分かっちゃ居ない)(大人の世界はそれでは渡ってはいけないよ)(だから僕が矯正してあげなくては)そう独裁者のように、愚かな信念を疑いもせずに貫き、過ちへと突き進む愚かな豚は、後ろにぶら下がる子供達の正義の味方にでもなったかのような思い込みをしてくさい息を吐きかける。つるん、とした顔には目も鼻も口もないというのに、その口臭だけが鼻に刺さって吐き気がする。言われた言葉も、後ろで笑う小鬼達の群れも、くさい息も、何もかもが嫌で、それでも何も出来ずにただ拳を握りしめた。自分の小ささが、痛かった。

 

夢の中の世界は歪み、内臓のように絶えず蠢き、その思い出を咀嚼しようと動くから、

ちらりと、目の端に、あの日には気付かなかったものが映りこむ。

その言葉を投げつけられた日は、今だ自分は真実には至らない小さな子供でしかなかった。だから、この夢の端のほうで、モノクロに歪む世界の中、遠く、遠くにその顔が浮かび、他の子供達と同じように、いや、もっと深刻に意識的に自分を嘲笑う顔が、視界の端に映っていたことなど気付かなかった。

 

けれど今は、その顔を忘れることなど、出来そうもない。

 

 

 

「お早うございます」

窓のない部屋の中、今が朝だという保障はどこにもないのに目覚めると同時にMr.Rは跪いたままでそう声をかけてきた。一体いつからそこに居たのか、それとも目覚めると同時にワープする機能でもついているのか、その顔には長い間跪いたような疲れはまったく感じられない。意識が眠りから覚めていくほどに、体中の感覚が戻ってくる。嫌な夢の残響が今だシャツに汗となって張り付いて気持ちが悪かった。

「何?」

汗に濡れた額を拭いながら、そう問えば、

「貴方が魘されていらっしゃったようですから、気になりまして」

男は笑顔でそう嘘を吐く。この男の吐く言葉は、それが本当であれ嘘であれ、すべて誠のない贋物だと解ってきた。

ベッドから身体を起こすと、Mr.Rの手が、こちらへ誘うように伸びた。

「まずは、お食事にしませんか? それから、貴方に是非会わせたい方がいます」

会わせたい方?

この世界から隔絶されたような場所にも、人の来訪などあり得るのか、そんなことを思ったが、

大人しくその手に手を載せて男の促すままに従った。とりあえず、空腹ではあったから。

 

食事を終えて、また長い長い廊下を歩いていく。食事は、案外まともなものが出た。スープ・前菜・メイン・デザートと続く料理を、食べ慣れないナイフとフォークで食べているのを、長いテーブルの向かいでMr.Rが何も食べないままに見ていた。

(変な奴)

料理は美味しかったから、文句は言わずに黙々と食べて、それからこうしてM.Rに促されるままに後ろを歩いている。その手はMr.Rの手に握られたままだ。子ども扱いされているような気がして振りほどこうと何度も手を引っ張ったが、強く握られている訳でもないのにその手はぴくりとも動かない。

やがて。

歩くことに飽きて欠伸が漏れはじめた頃にようやく、Mr.Rの足が止まった。

止まったのは、大きな扉の前。先ほどまで、視界の先に扉など無かったように見えたのに、そこには豪華な飾りのされた大きな扉があった。

「こちらです」

ようやくMr.Rが後ろを振り返り、扉を開いて克哉を招いた。

 恐る恐る、一歩中へと入る。

 比較的大きな部屋は、大きな窓を赤いカーテンが覆っていた。部屋には、ソファやテーブルなど、重厚でまっとうな家具が誂えてあったが、テーブルや壁には見たこともないような道具や鞭が置かれてあった。中には、何人もの人が居た。居た、が、あまりに意外な光景に克哉は目を剥いたまま、一歩も動けなくなった。そこには、多数の人間が、裸であったり、少ない布地の服を着ていたり、革で出来たようなおかしな服だけを身につけた状態で絡み合っていた。誰一人、二人が部屋に入ってきたことに気付居た様子もなく、自分の欲望を貪ることに夢中になっている。四つん這いになった全裸の男に後ろから圧し掛かり、鞭打つような音を立てながら腰を振る男。あられもなく開脚してベッドに寝る女の顔の上と、腰に二人の男が下半身だけを剥きだしにして何かを言い合っている。別のところでは、革で出来た少ない布地の服を着た男を、真っ赤なブーツを履いた女が罵りながら叩いていた。鼻を、甘いような香りがくすぐる。ごくり、思わず喉が鳴る。女の甘い嬌声が耳をくすぐり、克哉の耳は思わず赤くなった。

Mr.Rは何事もないように、中へと入るといつもの薄い笑い顔を浮かべたままで中を見渡した。睦みあう人々の声など聞こえないかのように、表情はぴくりとも変わりはしない。

「いらっしゃいました」

何かを見つけたMr.Rの声を聞いてようやく二人の存在に気付いたように、複数の男に圧し掛かられて甘い声を上げていた女がこちらを熟れた瞳で見上げた。目と目が合う。唇が、「たす、けて」と開いたが、そのまま上に圧し掛かる男の唇に吸い込まれていった。克哉の動悸は止まらない。助けるべきなのかどうするべきなのか考えあぐねたが、Mr.Rの手がそのまま克哉を奥へと導くのに連れられるまま、気付かないふりをして更に歩いていった。奥を塞ぐように、首や腕に拘束具を付けられた女が横たわっている。その身体には白く精液がべったりと張り付いていた。首には麻紐が巻きつけられており、その端は壁へとつながっている。それを無造作にMr.Rがぐい、と引くと喉を締め付けられたのか、床に倒れた女が呻いた。気にせず更に引くと、犬のように這いながら女は端へと動いた。

その奥に、一人の男が居た。醜く太った身体には、黒い革の拘束具がいくつもついていて、身動きできないようになっている。目にはアイマスクが、口にもなにやら穴の開いたボールのようなものが付けられていて、そこからだらだらと唾液が零れていた。ふー、ふーと、そこから絞るような息が聞こえる。あまりの醜さに、思わず眉をしかめる。薄ぼやけた頭にも、身体にも、汗がべっとりと染み付いていた。

「誰?」

思わず眉をしかめて隣の男にそう聞けば、Mr.Rはにっこりと微笑んで、男の首についた鎖をぐい、と引いた。

「貴方を苦しめた、罪人の一人ですよ」

そう言って、首につけられた皮紐をぐい、とひっぱりあげる。どんな力を込めているのか、巨体がMr.Rの下に吊り下げられる。顔を真っ赤にしながらもがく男は無様で、醜悪だ。

その醜い身体を眼前に突きつけられて、仕方なくそれをじっくりと見た。その顔にろくに覚えはないが、近づいた顔から放たれる口臭に、覚えがあった。

「こいつは……」

 忘れるわけも無い。先ほどまで夢に見た、底のない偽善者だ。そう気付いた途端、今までこの環境に動揺していた心がすぅ、と冷えた。驚きに丸くなっていた瞳も、冷たく蔑むように光る。幼い子供の身の上に巣くう鋭利な獣が牙を剥くように、克哉の表情が変わった。

「貴方には、これを罰する権利がある。どうぞ、貴方のお気持ちのすむままに、甚振りなさい。これは、貴方への生贄。貴方のような素晴らしい方が苦しんでいるのに気付きもせず、それどころか傷に塩を塗るようなことをした罪は重い。だから、貴方がその手で、罰すればいい」

そう言うと、Mr.Rが皮紐を握る手をぱっと離した。崩れ落ちる肉体が、どさりと音を立てて、げほげほとむせる音がする。Mr.Rが容赦をせずその薄い頭に革靴を乗せると、いつのまにか隣に居た青年が、恭しくその手に鞭を渡す。鞭を手に取ると、頭に靴を乗せぎりぎりと踏みつけたままで、その醜い脂肪の塊へと鞭を振るった。何度も、何度も。そのたびに、塊はくぐもった悲鳴を上げ、膨れた腹には赤い線が走った。殺される豚の悲鳴にも似た声がMr.Rの足元で鳴る。館の主自らが振るう容赦のない鞭の響きに、気付けば周りの客も歓声をあげ見守っていた。けして性急ではない不規則なリズムで鞭が飛ぶ。そのたびに上がる悲鳴と、嘲笑。仮面を被った男達が、ひそひそと今日の生贄について話している。Mr.Rに鞭を渡した男は跪いたまま、そのやり取りを無感動に見つめている。誰の目にも、生贄は生贄に相応しい愚鈍なのだと書いてある。こんな穢れたものは、鞭を振るわれて、家畜のように扱われるのが相応しい。部屋をいつしか興奮が渦巻き、ここの欲望はいつしか一つに膨れ上がった。何度も何度も繰り返される可笑しなリズムに満ちたそのやり取りを見ているうちに、見ていた克哉の唇にも、いつしか笑みが浮かんでいた。

「我が王。貴方の鞭を、この豚に」

そう言って、Mr.Rが足を退けて手に持った鞭を克哉へと渡す。古びた鞭は、長く蛇のように克哉の足元でとぐろを巻いた。思ったよりも軽い。ゆっくりと右手をかかげ、憎むべき盲目に向けて突き出した。

(おおっ……)

『我が王』と呼ばれた子供が、鞭を握るその瞬間に周りの観客からも歓声があがる。いまだこの館に巣くう沈泥の味を知らぬほどの年の瀬の子供が、薄汚れた奴隷へと鞭を振るうその見世物に、皆はにやにやとその瞬間を待ち受けた。

克哉は、呪詛の言葉を何も吐かなかった。ただ、無言でしばし、赤く鞭に染まったその気持ち悪い生き物を見ていた。この部屋のすべての人間に蔑まれた目線を送られている男は、涎と汗に塗れ、これから行われることの意味にも気付かず、がたがたと震えている。

滑稽だ。

こんなものが、世界の中心のようにあの狭い教室を支配していたなどとは。

こんなものに気付いて貰えなかったくらいで、いつまでも苛めを止めることが出来なかった弱い自分も。

滑稽だ。この部屋も、あの教室も、自分もこいつも何もかも。

克哉の唇が、口角を上げる。それは、蔑みのようにも、自虐のようにも見えた。Mr.Rはそんな彼が、まっすぐに鞭を持ち上げるその動作をうっとりと見つめていた。

 

(そう。

今から、はじまるのです。

本当の貴方のための、時間が)

 

やがて振り下ろされる鞭は、子供が振るったものとは思えないほどに重い響きを肉襦袢へと与え、観客の視線と心とを魅了した。どよめく赤い部屋の中、ステージの中心に立つ扇動者のように、克哉は人の心を掴んだ。いくつも、いくつも振り下ろされる憎しみの塊のような鞭。それとは逆に未だあどけない少年の顔には、確かに興奮が浮かび上がっていた。まるではじめてのセックスに溺れるように鞭を自在に振るう少年に、その場に居た誰もが、王を見た。

 

やがて手を止めた少年の顔には、それまでの過去を断ち切った、冷たい男の瞳が輝いていた。

 

 

 

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