『翌年』

(このサイトの時系列的にいうと、「バレンタインデー」→「engagement」→「ホワイトデー」→「胸のうちに眠るもの」→「翌年」

ですが、そんなにきにしなくても大丈夫です)

 

 

 

 毎年、独身の男女を浮かれ騒がせる一日が今年もまたやってきた。例年と同じく街はピンク色のハートマークに埋め尽くされ、誰の口にもチョコレートや恋にまつわるエピソードが口にのぼる。御堂孝典にとっても毎年この日はけして何気ない他の日と変わらない一日とはいかなかったが、今年は例年とは多少違いがあった。

 今年のバレンタインデーは土曜日。会社は休業日で、取引先からも仕事にかこつけたオファーはさすがにほとんど入らなかった。去年のバレンタインデーに薬指に嵌められた指輪は、一度その手から離れたが今はまたその指に納まっている。その効果もあってか、休日出勤して雑務に追われている間に訪ねてくる人間の数も例年より半分近く少ない。

(結局佐伯の言うとおりになったな)

 指輪は、自分が思った以上の存在感を持って、チョコレートを寄せ付けないバリアとなって自分を守っているらしい。そう考えると、まるでその指輪が佐伯自身の分身か何かのように思えるから不思議だ。右手で指輪をくるくるとまわして弄びながら、そんなことを思った。指に小さな佐伯がしがみついて、あーだこーだと吠えている絵が浮かんで少し笑った。

 休日出勤をする羽目になったのは、年末に二人が勝ち取った非常に大口の仕事のためだ。思った以上に膿が溜まった大企業の改革を、克哉が契約提携の日に「御社の担当は、この御堂が当たらせて全力を持って当たらせて頂きます。よろしくお願いします」と言ったがために御堂がそのほとんどの仕事を追うことになったからだ。その時の克哉の真意を思えば、克哉がその仕事を自分に託した気持は痛いほどだし、克哉は克哉で次は本当に世界を狙っているのか、多国籍企業と提携するための策を本気で煉りはじめている。同時にMBAの資格を取るために週末を使って学校にも通い始めたため、二人の忙しさはさらに極まれり、だ。

 (そう言った意味でも、無駄なことに時間を取られなくて済むのは非常に助かる)

 そうでなくても、本気で全力を尽くして自分の前に立つ人間に対して一日に何度も断りを入れるのは疲れる作業だ。その人数は少ないほうがいい。そうはいいつつも、御堂の机の横に置かれた紙袋には、けっこうな数量のチョコレートやプレゼントが几帳面に納められていた。

 克哉は今日は夕方まで学校に行っている。どちらか、早くに手が空いたほうが、もう片方を迎えて食事に行くことになっていた。御堂は手元の時計を見る。まだ一五時。克哉の授業は一七時に終わるはずだから、自分のほうが早くに終わる可能性は高い。せっかくだから、なんとか克哉より先に仕事を終えて迎えに行ってやろう、と思い後は指輪から手を放して仕事に集中した。

 

 

 

 一七時五分。克哉の通う経営の学校のほど近くに車を止めて、左ハンドルに手を置いたまま御堂は外を見ていた。冬は終盤を迎えつつあるとはいえ、未だ夕方の外気は冷たい。車の中は暖房を入れてあったが、窓ガラスの傍には冷気が入り込もうとしていた。最後の授業が終わる時間が一七時だから、帰り支度などでもうしばらくはかかるだろう。そう思って御堂は、背もたれに体を預けて人の行き交う街並みを見ていた。

今日は二人で懇意にしているレストランで食事を楽しむ予定だ。去年プレゼントを貰ったからといって、今年何かを用意したりした訳ではないし、逆に今年も何かを貰えると期待をしている訳でもない。どちらかといえば二人とも、バレンタインなどという行事は面倒で、どうやって乗り切るべきかと頭を悩ます種類の問題だった。昨日も克哉には、「わざわざ土曜日に会社に行くなんて、自分から狼の群れに食われに行くようなものじゃないか。仕事ならいくらでも手伝ってやるから一日くらい家でおとなしくしておけ」と、散々なことを言われたが、「君が私に任せた仕事だろう。きちんと成し遂げてやるから、君は黙っていろ」とはねつけたらさすがに黙った。あの前後のことに関しては、お互いもちろん思うところも触れにくい側面もあるが、だからといってお互いが押し黙ってしまってはまだ以前の二の舞になる。だから御堂は隠す訳でもなく、だからといって何度も謝罪する訳でもなく、ただの過去のエピソードの一つとして克哉に話すようにした。同じ懊悩を二度繰り返して、二度とも同じ結論にたどり着いたのだ。これから何度同じことを繰り返そうとも、きっと自分は何度でも同じ結論にたどり着き、そうしてこの指輪を手に嵌める。だから克哉はもういつまでも自分を傷つけたことを気に病む必要はないのだ。それを伝えてやりたくて、御堂は必要以上に気にしていないそぶりを克哉に見せた。

空の色が少しずつ変わっていく。考え事をして、ふと気付けばもう三十分を過ぎていた。多少延長があったとしても、そろそろ授業も終わったことだろうと思い、携帯を手にして、ここにいることを伝えようとした。その時。

「好きです。もし、今きまった相手がいないのなら、付き合って頂けませんか?」

窓の外から、声が聞こえてきた。冬の終りの風物詩がここでも花咲いている。そう思い、ちらりとそちらへと目をやった。ちょうど学校の入口の辺りで、若い女性が一世一代の愛の告白をしているようだった。

(よくもまあ、こんな人通りの多いところで)

そう思って、悪いとは思いつつも目がそちらを向く。こちらからは背中しか見えていないが、女性はまだ相当若いのだろうと思った。スーツを身にまとっているが、髪型や声のトーン、バッグの種類などから年齢は見て取れた。ぶしつけな告白だ。まだ恋愛に慣れてもいないのかもしれない。そう思ってから、告白を受けている相手のほうに目をやった。

 そこには非常に見慣れた男が居た。そう、恋人と言ってもいいほどに見慣れた男が。

(……)

 まだ、二十八歳になったばかりだ。顔もいい。キクチ時代はまだどちらかというと、人にどう思われるかを気にせずに強引に言葉で丸めこんで仕事を取っていたが、会社をはじめてからはそれでは風評が悪くなると気付いてか、営業スマイルにも磨きがかかった。そんな代表取締役社長が同じ学校に通っていたら、それは確かに一世一代の告白をしかけたくなる気持ちもわからなくはない。わからなくはないが。

 何も私の目の前で行われる必要はないんじゃないか? 運命だかなんだかにそう毒づきながらも、克哉曰く『後腐れないように』断る手管を見てやろうと思って、目をそらすことはしなかった。

 克哉は、放り投げられる告白にも、顔色を変えることはしない。今日告白されることを予感でもしていたのか、平静な表情のまま、さらに続けられる「どういう流れで好きになって、どういう風にあなたのことを見ていたか」話の続きを聞いている。女性の声はかなり大きいのか、佐伯の声は一言も聞こえてこないのに、女性の声だけはこちらまでかすかに届いてくる。曰く、発想力が凄い、だの、頭の回転が他の人とは比べ物にならない、だの、プレゼン能力に秀でていて聞いていてついうっかり乗りそうになる、だの、言っていることには同感だが、本当は顔とバックボーンが良かったからだという事実を言い訳で隠そうとしているようにしか感じられない言葉をいくつも重ねていた。

(その男は、そんな理由だけで付き合っていけるほど生易しくはない)

 自分の中に、幽かにそんな優越感が沸いているのを感じて、御堂は馬鹿らしいと自分を笑った。

 一通りの彼女の頭の中での克哉像が語られたあと、女性は手に持っていたチョコレートの入った黒い紙袋を克哉のほうへと両手で差し出した。

「お願いします」

 一昔の夜のテレビ番組のような流れだ、と思って若干皮肉な笑みを浮かべながら二人を見ていたが、それは突如裏切られることとなる。

 克哉ははじめ、どうしたものか、と考えあぐねたような表情をした後、ふと何かに気づいて、それからその紙袋を受け取って、よく出来た笑みを浮かべた。

 ありがとうございます。

 と言ったのが見えたような気がする。それから更にいくつか言葉を重ねたような気がするが、そこまでは御堂には聞こえなかった。

 そのあとの二人の行動までは見ていない。御堂は静かに車を滑らせると、振り返りもせずにまっすぐに自宅へと車を進めたから。

 

 

 

 それから約一時間のち。ようやく携帯が自分との会話を求めて鳴り響きはじめた。取るべきかどうかやや迷ったが、その間もシンプルな着信音は鳴り響き続けた。

「もしもし」

 着信画面に名前の載った通りの人物からの声がする。

「ああ」

 言葉少なに、答えた。

「仕事、終わってたんだな。会社のほうに顔を出したがもういなかった」

「ああ」

 二回続けて同じ返答を返せば、相手が不審に思うかとも考えたが、他の言葉がとっさには出てこなかった。

「御堂さん?」」

 案の定、声のトーンが問いかけに変わる。

「どこにいる?」

「……家だ」

「家?」

「ファンドの値動きが気になってな。少し売っておこうかと思って家に戻っていた。連絡が遅れてすまない」

 あながちすべて嘘ではない。実際今自分はパソコンの前に座り、この先思わしくないと思われる商品の売りの手続きを行っている。だが、家に帰ってきたのはそれが理由ではない。

「ふうん」

 納得したのかしていないのか、声の表情だけでは分からなかった。

「今から迎えに行ってもいいか」

「……ああ」

 そういう流れになることは分かっていた。分かっていたが、電話を切った後に訪れるのは、あせりのような、いらだちのような感情だ。先ほどの件を、たいしたことではないと切り捨てて何も言わずに置くべきか、問い詰めたほうがいいのか、軽く軽口のように話せばいいのか、それを考えあぐねていた。ただの社交辞令だと思う。思おうとする。けれど、それは黒い染みのように若干の色を残す。その色は早く落とさなければ、落ちない汚れになるかもしれない。克哉を疑う訳ではない。疑うわけではなくて、こんな少しのことで心に染みを作ってしまい克哉との関係に不純物が出来ることが嫌だった。

(何もなかったふりをするか)

 家に居るのはただワインファンドの動向が気になったからだと、とっさとはいえ言ってしまった。言ってしまったからには、もうあの現場を目撃したことなど話すべきではないだろう。

 そう考えて、御堂は気持ちを切り替えようと軽く伸びをして、支度をはじめた。

 

 

 

「こんばんは」

 チャイムの音に扉を開けると克哉が立っていた。先ほど車の中から見た時とは服装が変わっている。シャワーを浴びてきたのか、整髪剤をつけていない髪はいつもよりも柔らかそうに見えた。御堂の手が扉を閉める前に、克哉は中へと滑りこんで後ろ手に扉を閉めた。

「遅くなりましたが、今から行きますか?」

 玄関口で克哉はそう言うが、御堂は今から食事を楽しむ気分にはなれなかった。そのせいで、どうしても返事がやや遅れる。

「……そうするか」

 御堂もまたスーツから私服へと着替えている。だから、足を踏み出せばすぐに食事に行くことが出来る。けれど足がなかなか動いてくれない。それでも、玄関に置かれた鍵を持って、外へ出ようとした。

「御堂さん」

 克哉の表情が変わる。聡い男だから、ほんの少しの違いすらも逃すことはないのだろう。

「何か、あったんですか?」

 何か。何もなかったようにも思える。自分だって、毎年さんざん繰り返してきた行事だ。それに佐伯が巻き込まれているシーンを見た、だけなのだともいえる。けれど、何かあったようにも思える。チョコレートを受け取り見せた笑顔であったり、シャワーを浴びたであろう柔らかい髪が、自分の胸を少しずつかき乱す。それを平然と受け止められないほどには、御堂はまだ克哉のことを自分の隣に居るのが当たり前だとは思えていなかった。思わず眼が泳ぐ。二つの回答のうちどちらを選ぶべきか、答えを出せない。

「……何もない。食事、行くんだろう。予約の時間を少し押している。早く、出よう」

 そう言うと、コートを羽織り、克哉の横をくぐりぬけて外へと出ようとした。

 腕を、強い力で掴まれる。痛い、と思う暇もなく、壁に体を縫いつけられた。克哉が手にしていた鞄が床に落ちる。見つめてくる瞳が、瞳の裏に揺れるものを探り取ろうと深く深くねじ込んでくる。その瞳の中に、嘘が紛れていないかと、御堂もきつく眉を引絞ってその蒼みがかる瞳を見詰めた。二人の視線が交差して、それからその瞳はどちらも閉じられることのないままに、唇が重なった。

「んっ……」

 熱く舌を吸う唇の熱さに行き場を失った吐息が鼻から抜けて、悩ましい音となって克哉に届く。覗きこまれる瞳に負けて先に目を閉じたのは御堂だった。右腕はきつく御堂の腕を握ったままに、空いた左手が御堂の髪をきつく掴んで自分へと引き寄せた。口内をくすぐる舌の動きに、官能が刺激される。御堂は息をすることも忘れて、翻弄されるがままに身を震わせた。

 行き場を失ったままぶらりと下がっていた右手が、一度きつく握りしめられると、克哉の背中へとその手がたてられてきつくコートの背を握りしめた。きついくらいになりふり構わず求めてくる克哉の唇に、腕に欲望を刺激された身体が、もっと欲しいとなりふり構わず克哉を求める。気付けば克哉を誘い込むようにその背はしなり、それにまかせて克哉は壁にもたれかかった御堂に覆いかぶさるように御堂の右手を握りしめていた手を腰へと回した。

「……っ」

 尻を手が撫でまわす。その動きに、ぞくりと更なる欲望が湧いて、思わず腰が揺れる。それに気づいた克哉が、唇を離すと、また御堂の瞳を覗き込んだ。

「何が、あった?」

「……っ。何、も……」

 それでも否定すると、克哉がもう一度御堂の左手を掴んで、靴を脱ぎ散らかして、そのまま御堂を部屋の中へと連れて行く。

「放、せ」

 そう言うが、克哉の腕は強く、その意思は言葉くらいでは曲げられそうになかった。強引にリビングまで連れてこられると、そのままソファへと押し倒された。手の平が、すでに膨らんだ足の間をなぞる。慣れたはずのその手の動きに、何故か先ほど見た女性が過ぎる。たった数%の不純物が、ダイヤの輝きを落とすように。たったあれだけのことが、自分の中にしこりとなって克哉の手に溺れることを拒む。

「気分じゃ、ない」

 体も、頬も、声も、先ほどの視線と唇の交差も、求めていることを隠せはしないが、それでも御堂はそう言って拒んだ。

 克哉はその言葉を聞くと、少し身じろぎをして、それから御堂から離れた。眉に寄った皺は、双方ともに、深い。

「すまない」

 沈黙からかなり遅れて、御堂はようやく謝罪の言葉を口にした。克哉はソファから立ち上がると背中を向けたまま、背中にこれでもかと不機嫌を匂わせて突っ立っている。あんなシーンにいちいち嫌悪感を覚えるのは馬鹿らしいと、ようやく不純物に打ち勝った理性が自身を止める。ソファから体を起こすと、御堂は左手で唇を抑えて溢れそうだった衝動をなんとか抑えた。セックスへの衝動も、とっさに沸いた嫌悪感もどちらも理性とは別のところから来ているからこそややこしい。

「先に食事に、いかないか?」

 気不味くなった空気を変えようとそう提案するが、一度欲望を遮られてしまった男の不機嫌はそれくらいでは治りそうになかった。

「こんな状態で二人仲良く食事に行けと?」

 まだ収まりがつかないのだろう克哉は、不信を露わに御堂のほうへと向きなおった。

「こんなに、キスに溺れたくせに気分じゃない? こんなに何かを秘めた顔をしているくせに何もない? どれだけ俺を馬鹿にしたら気がすむんですか。下手な嘘にだまされたふりをしてやれるほど、俺は大人じゃない」

 そう言うと、もう一度克哉の膝がソファの端へとか

けられた。座る御堂の傍へと顔を寄せて耳朶を噛む。

「こんなに挑発しておいて、俺が抑えられるとでも思ったか?」

 低い声が耳元を掠めれば、一度戻ったはずの理性はぷつりと切れる。

「あんたと、したい……」

 声に抑えきれない欲望が混じっていることを感じ取れば、先ほど湧いた不純物などやすやすと溶けてゆく。それでも一度断った手前流されていいものか考えあぐねて、克哉の指先が動くのを止めることも出来ず先へ進むことを受け止めることも出来ずに瞳が泳いだ。

「さえ、き」

 何かを言おうとして呼んだ名は、もう一度与えられた唇の中に溶けていった。

 

 

 

 与えられた快楽は、痛みにさえ似るほどに執拗だった。克哉の体は熱く、瞳は少しの怒りを湛えている。その瞳に射抜かれるたびに、背筋には寒気が這い、与えられた刺激は御堂の奥から自分すら知らない自分を引きずり出す。喘ぎをかみ殺す暇もないほどに波が襲い、気付けば瞳からは涙がこぼれた。手の平が薄い茂みを這うだけで、果てへと飛びそうになる。それをもう片方の手が戒める。イカせてくれ、と泣きごとが唇から洩れた時、ようやくその手が離され訪れた絶頂に、意識が一瞬途切れた。

 涙でひどい有様になった顔を、克哉の唇がやさしく拭う。全身から力が抜けた身体が、抜かれた後も何度も襲う揺り返しの波に何度も跳ねる。

 ようやく涙も余韻も止まり、我に帰ると着たままの服は自分と克哉の放ったもので濡れ、ぐしゃぐしゃに皺になっていた。

「……こんなにしてしまっては、食事には行けないな」

 またあられもなく乱れてしまった羞恥心から克哉と目を合わせられないままに呟く。

「そんなに、食べに行きたかったのか?」

 克哉が、乱れた御堂の髪を撫でつけながら御堂の上に体を預けたままで問いかける。

「そういう、訳でもないが……。せっかくの、日、だからな」

「……悪かった。止められなかった」

「……いや、いい」

 二人とも、言葉少なに、けれど沈黙を恐れるかのようにぽつりぽつりと会話を交わす。険悪とまではいかないが、若干ぎこちない空気が二人の間に流れている。

「けれど、確かに腹は減った、な」

「ケータリングを頼むか……」

 克哉が時計を見るが、すでに懇意にしている店は最終オーダーを終えた時間だ。

「風呂に入ったら、何か、パスタでも作る。あんたはもう少しゆっくりしていたらいい」

 言われなくても、だるくて起き上がることも出来ない。ティッシュで最低限のものを拭うと、御堂はまたソファへと体を預けた。

 ここまで流されてしまえば、今さらあんな些細なことを問いただす訳にはいかない。自分で、何か都合のいい理由をつけてしまってなかったことにするしかない。克哉が、今までとなんら変わり無い熱量で自分を求めていることは分かった。その事実に、思わず自分を見失って溺れてしまった。最中に自分が言った言葉をいくつか思い出しては、羞恥で死にそうになりながら、御堂は胸にひっかかった些細な小骨を取り除こうとしていた。

「あがったぞ。あんたもシャワーを浴びればいい。その間に、料理を作っておく」

「ああ……。もう少ししたら入る。今はまだ、動けそうにないな」

 苦笑しながら御堂が言うと、克哉は風呂上りのバスローブ姿でこちらを見た。

「そうか……」

 それだけ言うと、何かを思いついたのか克哉が玄関に置いたままになっていた鞄を取りに玄関のほうへと歩いて行った。御堂はソファにもたれかかったまま、ぼんやりと考え事をしている。やがて克哉がリビングへと戻ってきた。その手に持っているのが、見覚えのある黒い紙袋であることに気づいてぎょっとした。

「な、なんだそれは」

 不倫現場の物証を目の前に突きつけられたかのような驚きと焦りで御堂が飛び起きる。克哉はそんな御堂の反応に、ぽかんとしている。

「腹、減ったんだろう。これでも食べて待っているといい」

 克哉がテーブルにその袋を置く。遠くに見た時にはよく見えなかった銘柄は、ピエール・マルコリーニ。

「前に、あんたがここのチョコレートは好きだと話していただろう。だから、普段ならこういう重いチョコレートは断るんだが、あえて貰ってきた」

 手に取ることも出来ずに、手が泳ぐ。

「……好きだとは言ったが」

 溜息が唇から洩れた。

「嫌いになりそうだな」

「……?」

「君は本当にデリカシーがない」

 御堂が、怒ったようにそう克哉を責める。けれど、その顔には若干の羞恥と安堵がにじんでいる。

「他の女からの一世一代の告白付きのチョコレートを、恋人にいけしゃあしゃあと渡す馬鹿がいるか。せっかくのうまいチョコレートが、これでは台無しだ」

 デリカシー、と言われた意味をようやく把握したらしい克哉が唇に笑みを乗せた。

「ああ、それなら大丈夫だ。こっぴどく振ってやらないとかわいそうだと思ってな。告白には丁寧にお断りを入れたし、恋人と一緒に食べさせて頂きますね、ともう二度と俺に渡したくならないようにけん制もかけておいた。きちんと断りは入れてあるからあんたが食べることには何の問題もない」

 いけしゃあしゃあと、悪魔のようなことを言う。御堂はその悪びれない表情をぽかんとしたまま見て、それからソファにまた崩れ落ちた。

「……よくもまあ、そんな馬鹿なことを」

 車の中で先ほど見た克哉の表情。チョコレートを見て、少しうれしそうに笑っていた。その視界の先にあったのが、見知らぬ女ではなく、チョコレートそのものと、そのさらに向こうに浮かぶ自分だったというならば。

「まあ、食べ物に嫉妬するなんて、馬鹿らしいな」

 そう、自分に苦笑しながらもう一度体を起こし、チョコレートの包みを開ける。中に入っているのは、綺麗に形作られたいくつかの褐色。

「じゃあ、料理、作ってきますね」

 そう言って離れようとする克哉の手を取る。ぐい、と自分のほうへと引き寄せると、チョコレートの一つを口へと運んでやる。控え目な甘さを湛えたチョコレートが、克哉の口の中で溶けていく想像をしながら、御堂は挑発的に笑んだ。

「今日は、もうこれだけでいい」

そう言うと、チョコレートの残る克哉の唇に舌を差し込んだ。不純物など何も感じられない豊かな味が、克哉の唾液と混じり御堂を刺激する。思うがままに貪って、克哉の味だけが残るまで、二人はキスをした。

「どうだ? うまいだろう」

 勝ち誇ったように言えば、克哉が笑いながら

「では、残った七粒分キスをしますか」

 そう言ってソファへと回りこもうとする。チョコレートを取ろうとする克哉の手を制して、

「駄目だ。全部、私が君の口に運ぶ。あと、これだけは私が食べる」

 そう言うと、唯一赤色のハート形をした期間限定チョコレートが御堂の口内へと消えた。恋人には誰かが込めた甘い思いなど、伝えてやるものか。そんなことを考えながら。

 

 

 

「結局」

 結局第二ラウンドに持ち込まれたセックスの後、克哉がようやく先ほどからの疑問を口に上らせる。

「何をあんなに気にしてたんだ」

「……」

 そう聞く克哉の目が自分を探るように見ているのを見て、目の前の恋人が自分にも何かあったのではないか? いぶかしんでいるのだとようやく気付いた。思わず笑みが零れる。

「本当に、会話の足りない二人だな」

 何度も反省したはずなのに、もう一度思い知らされて御堂は笑った。

「でもいい。君には教えてやらない」

 バレンタインは魔物だ。二人の愛を確かめるどころか、些細な疑惑に心が溺れる。けれど、きちんと修復が出来るならそれもいい。

 そのたびに、こんな激しいセックスが待つならば。

 それもまた刺激的だ。

 

 そんなことは、若い恋人には言ってやらずに、御堂は幸せそうな笑みを浮かべて克哉の手の中にもぐりこんだ。克哉は釈然としない顔をしながらも、御堂の口元に浮かぶ笑みを見て、無理なりに自分に納得のいく答えを探しだそうと、御堂の髪を撫でながら考えていた。

 

 

 

 

 

 

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