『扉の中に、瞼の裏に』

 

 

 夜二十一時。カーテンを閉めないままの窓の外には夜景の明かりが広がっている。

 間接照明だけを照らした室内は静かで、御堂が歩く物音しかしない。

 ダイニングテーブルに、鍵を置く。

 御堂は窓の外を遠目に見ながらネクタイを外すと、ベッドルームの奥にあるクローゼットへと足を運んだ。

 クローゼットのライトをつけてから扉を開く。

 いくつものスーツやシャツがきちんと並んでいる。どれも自分に似合うものを吟味してかった、オーダーメイドの一流品だ。

 その端に、一つだけ自分のものではないジャケットがかかっている。

 それにはあえて目を向けない。目を向けはしないが、そこにそれがあることを、御堂は毎日朝夕にクローゼットを開けるたび、気にしないではいられなかった。

 

 

 

 それは、三か月ほど前の話。

 「とある男」によってもたらされた地獄のような日々が終わりを告げてから一カ月が経過していた。

「ええ。それでお願いします。では。はい。分かりました。明日、お待ちしております」

 電話の相手にそう告げて、御堂は携帯を切った。

 あの男が去ってからのはじめの一週間は、御堂は何をすることもできなかった。肉体的な意味においても、精神的な意味においても、何もすることができなかった。ろくに食べ物を摂取することもできず、外へ出ることもできず、ただ悲しくてただ憎らしくてただ恐ろしくて、部屋の片隅にぼんやりと座って、ただできるかぎり何も考えなくてもすむように、眠っていたような気がする。今となってはその頃の記憶すら曖昧だが、時折、胸を突き破りそうな慟哭に、ただただ静かに泣いていたような覚えがある。

 次の二週間は、反動のように活動した。家の中の物を咆哮と共に薙ぎ倒し、かと思えば理性的なエリートのような顔をして不動産屋に連絡を取り新居を探しまわり、ありとあらゆる「見たくない物」を捨てたりと、自分に考える暇を与えぬようにとがむしゃらに動いた。新しい仕事としてL&B社とコンタクトを取ったのもこの頃だった。このマンションはリフォーム業者に壁紙やフローリングまですべて変えるようにと依頼済だ。

 ろくに選びもせずに新しい新居を決め、まだ売れてもいないマンションを引き払うと決断して一週間。

 最低限の「あの男」の匂いの付いていない荷物だけをまとめて、引っ越し業者との最終打合せが、今、終わった。まるで夜逃げのような性急さだったが、きちんと前金で支払いさえすれば、業者は何も文句は言わず、にっこりと仕事を引き受けた。

 段ボールが積まれた部屋。残る家具はすべて、明日引っ越し業者とは別に、処分業者がやってきてすべて片付けてくれることになっている。

(……終わりにする)

 どんなにきつく目を瞑っても瞼に残る光の残像のように、何度も何度も心の中に焼きついたそれも、もう今日で終わりだ。御堂はそう、何度も何度も決意した。言い聞かせた。

 もうすべてを終わりにする。捨ててゆく。「あの男」との間にあったことも。それ以前、MGNにいた自分のことも。積み上げて、そうして崩された何もかものことも。すべてをゼロに戻して、明日この家を出てゆく。決意は、強固で、もう覆すことはない。

 そう、思うのに。

(『俺とあんたの間にあったことをすべてリセットするんだ』)

 自分の決意に似た言葉を放った男の声が、耳の内に蘇る。

 『なにもなかった』

 途端。御堂はまた、動けなくなる。この二週間自分が何をしていたかも曖昧なのに、あの男の言葉だけはこんなにも、いまだに鮮明だ。

 だからこそ、御堂は明日、この家を出る。出なければならない。

 

 ぼんやりと、ただそれを眺めている間に、引っ越しの荷物の運び出しは至極速やかに、胸すくほどのあっけなさで終了した。荷物の量が少なかったこともあり、一時間もせずに終了してしまった。それを立ち呆けて見ている間、御堂がしたのは、残っている家具に手をつけようとする業者に、それは置いてゆくものだ、と指示を出すことだけだった。

 アルバイトなのだろう、若いスタッフばかりだった。中に一人茶色の髪の若者がいた。思わず眉をしかめたことなど、きっと誰も気づいていないだろう。

指示が終わった後は、ずっと窓から地上を見つめていた。あの頃は、こんな高さから窓の外を見つめることはできなかった。窓の外は下から上へと見上げるものだった。淡々と変わり繰り返す空の色だけが、御堂の瞳に映る「変わるもの」だった。窓の外にすら人間の生きる気配はなく、たまに遠くに小さく見える飛行機にすら、助けてくれと叫び出したいほどだった。

 今目に映るのは、都会の街並みだ。昔はよく、ワインを片手に夜景を見ていた。この夜景が好きだった。今は、……風景に何かを感じることができない。

 今御堂を取り巻く世界は無味無臭で、こんなにも鮮やかな色合いなのに、どこか他人事のように、よそよそしい。あんなにも灰色に塗りつぶされていたはずの過去のほうが、何故だか今頃極彩色の夢のように鮮やかだ。

「ありがとうございました」

 お決まりの笑顔を見せて、業者の若者が部屋を出ていった。都内の引っ越しだから、明日には荷物は新居に着く予定になっている。あっけない。とてもあっけない。まだあちらの部屋の家具は何も揃ってはいないが、元々作りつけの収納だけでも足りるほどの荷物しか、あちらには送らなかった。これだけは、と購入したベッドも明日届くように設定してある。きっと段ボールをすべて開けて、中身を仕舞うのにも、一日もかからないだろう。そうやってすぐに、御堂のこの部屋での生活は、終わりを告げ、新たなる生活がはじまりを告げる。

 ピンポーン。

 インターホンが、新たなる来客の訪れを告げた。

 あの男がインターホンを押して部屋にやってきたのは、たったの二回だ。そんなことを思い出して、また胸の中に砂がたまる。掻き毟る代わりに、シャツを握りしめて耐える。

「はい」

「あ、お待たせしました、リサイクルの○○です」

「ああ。では、さっそくですが、よろしくお願いします」

 頼んだのは、家具や家電を扱うリサイクル業者だ。別に捨ててゆくものの金額などどうでもよかったが、ただ処分するにも金はかかる。そうして、最も早く処分してくれる会社が、たまたま処分業者ではなく、リサイクル業者だった。ただそれだけのことだった。値のつかないものについてもそのまま処分料を払えば処分してくれると聞いて、この会社を選んだ。そもそも自分一人で運べるサイズの荷物は、すでに自分ですべて処分してしまった。

「では、さっそく査定に入らせていただきます」

 作業服を着たスタッフが二名、部屋へと入ってくる。先ほどの引っ越し業者はアルバイトなのか若者ばかりだったが、今度の担当者は二人とも中年男性だ。なぜかほっとしたような気分になる。ざっと引き取ってもらいたいものについて説明をして、御堂はまた窓の外をぼんやりと眺める。査定金額などどうでもよかった。とにかく御堂の目に二度と止まらない場所へと運んで行ってくれるのなら何でもよかった。

 御堂はまた空ではなく、足元に広がる街並みを見下ろした。どこまでも続く無数のビル。無数の車。無数の人影。このどれか一つにあの男がいるかもしれないと思うと、それだけで息が苦しくなった。

「……すいません、ちょっといいですか?」

 奥の部屋の家具を確認していた男が、御堂に声をかけてきた。

「なんでしょうか」

 理知的な仮面を被って、業者へと向きなおる。途端に目に映ったものに絶句した。

「すいません。うちは衣服の買い取りは行っていないのですが、これはどういたしましょうか? 随分と高いもののようですが、これも処分されますか? それとも着て行かれるご予定のものだったでしょうか……」

 男が持ってきたのは、一着のジャケットだ。

 ……御堂の物ではない。

 『袖を』通したことなど、一度もない。

 新居に持っていく荷物の中には入れなかった。だが、捨ててしまった様々な小物と一緒にごみ袋の中につっこむこともできなかった。だから見ないふりをした。見ないふりをして、そのままこの部屋に忘れてゆくなり、業者にそのまま処分してもらうなり、自分の目に触れないうちにいつのまにかなくなっていってほしいと思っていた。

「……それは」

 そうやって、目の前に出されてしまえば。

 御堂はそれを、捨ててくれとは言いだせない。

「……、持ってゆきます」

 観念するように目を伏せてそう告げる。

「分かりました。では、これはお持ちください」

 そう言って、業者が御堂にジャケットを手渡す。御堂の手が少し震えていることになど、業者は気付きもしなかった。

 ふんわりと、御堂の手にかかる上質な布地の感触は、何度忘れようとしても忘れられない、御堂にとって網膜の光のようなものだった。今手にしたそれには感じられない、あの日御堂を包んだ温もりの不足を覚えて、御堂は瞳の奥に込み上げてくるものに、必死で耐えることしかできなかった。

 

 

 

 あれからもう九カ月が経つ。人間の記憶など曖昧なもので、あの頃に御堂の中に荒れ狂っていた怒りや憎しみは、すでに形骸化して、その外枠だけを御堂の胸にひっかけているのみだ。

 なのに。

 あの温もりはいまだにこうして手の中に感触を残している。毎朝、毎夕。このクローゼットを開けるたびに、あの日背にかかったこのジャケットが伝えた温度がふわりと身に蘇る。そうして、それはもう二度と手に入らないものなのだと、毎日毎日御堂は思い知る。

 すべてを捨てた、はずだった。家も、家具も、大事にしていたはずのワインも。あの家にあった何をかも。

 なのにたった一着のジャケットが、御堂の「終わり」の邪魔をする。御堂の決意を阻害する。捨て去ることもできない記憶はいつまでも、御堂の胸の癒えない傷の上に、突き立てられる。

(……すべてリセットする、なんていっておいて)

 御堂は、忘れたはずの「あの男」へと語りかける。

(……忘れろ、なんていっておいて)

 ジャケットには目も向けない。あの男の名前など、死んでも思い出したりはしない。

 けれど。けれど恨みごとのように、御堂は網膜に残り続ける名もなき光へと語りかける。

(こんなものを残したのは、お前のほう、じゃないか)

 だから、忘れられない。忘れられないのは、お前のほうだ。未練を残したのは、お前のほうだ。忘れるなと必死なのは、きっとお前のほうなんだ。

 

 そんな風に言い訳をして、御堂は今日も、クローゼットの扉を閉める。

 中でジャケットが揺れているような、そんな気がした。

 

 

 

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