『夢のあと』

 

 

 Mr.Rに赤く熟れた石榴を手渡されてから、数日が過ぎた。

 愛おしい恋人に、もう数日も会われていないのでしょう?
 そろそろ我慢できなくなる頃かと思いまして。
 この果実をお食べになれば、貴方の望むモノを、手に入れることができますよ?
 大丈夫。
 あくまでこれは、果実の見せる夢。 
 貴方と、貴方の恋人に本当になにかが起こるわけではないのですから……

 出張先のホテル近くの公園に現れた黒づくめの男は、そう言うと一方的に果実を克哉に渡して去っていった。拒む暇もなく、珍しく向こうから消えていったので、掌に残された果実がなければ、Mr.Rが現れたこと自体夢か幻として自分の中で処理してしまいたいところだったが、手の中の石榴は甘く熟れて、悪くない匂いを放っている。
 もう二度と会うことはないと思っていた男に渡された胡散臭い果実を食べる気になったのは、御堂に数日会っていない欲求不満がぎりぎりのところまで来ていたからだ。会って抱かなければ、仕事を途中にして東京に戻ってしまいそうなほどだった。もしくは、帰りついてから御堂に酷いことをしそうだった。そのどちらもするべきではないと分かっていたから、せめて胡散臭い果実を使ってでも、己の中の熱を散らしておいたほうがいいと考えて、佐伯克哉は甘酸っぱい果実を一口齧った。喉が、乾いていた、そんな言い訳を自分にしながら。

 あの日見た夢から覚めても、その興奮がまだべったりと身の内にこびり付いているようだった。
 あれから数日、克哉は御堂のいる現実に帰ってきている。だが、その夢の端切れはいまだに克哉の中でくすぶっていたらしい。その実今日も、克哉は石榴の夢に似た、夢を見た。
 一つ違ったのは、今日見た夢の中の克哉はまだ御堂を好きにはなっていなかった。御堂のほうも、克哉を愛しているとは最後まで言わなかった。今日見た夢の登場人物は、二年前の御堂と克哉、そのものだった。夢なのか、記憶の端切れなのか分からないものが、夜通しをかけて克哉に過去を思い起こさせた。あれは、確かに御堂とのセックスだったが、セックスなんていう生易しい交わりではなかった。泣き叫びながらそれでも快楽に溺れる御堂を弄った自分は、心の底からその悲鳴に興奮していた。その心臓の高鳴りが、目が覚めてもなお止まらない。まるで、たった今まで自分が御堂を弄っていたような、その生々しさのまま、克哉は現実世界に放り出される。
「佐伯。おはよう」
 突然声をかけられて、我に返る。ベッドの中で眠っていたらしい自分に声をかけたのは、最愛の恋人だった。
「ああ。御堂さん」
 恋人は、情事の余韻をほんの少し残しながらも、充分な睡眠を取った後のすがすがしい表情でこちらを見ている。その顔を見ていたら、無性に抱きつきたくなった。寝起きの思うようにいかない身体をひきずって御堂へと倒れ込む。生きていて、自分を否定しない御堂に触れたい。その渇望のままに、御堂を抱きしめると少し身じろぎをした。
 御堂が、少し困ったような顔をしながら、どうしたのかと聞いてくる。詳しく話をする訳にもいかないから、夢を見たのだとぼかして話をした。御堂が内容を気にしていたようだったので、触れにくそうないい方をしてみる。
 案の定御堂は苦笑して、それ以上は夢の内容について突っ込むことはしなかった。嘘はついていない。多少言葉足らずなところはあったとしても。
 御堂を抱きしめる。その暖かさに、しばし身を委ねる。寝起きの頭はあまり秩序立てて物事を考えてくれないから、ただ夢と現実の狭間で暖かさに浸っていた。
「シャワーを、浴びてくる」
 そう言うと、御堂が抱きついている御堂の腕をふりほどく。名残惜しくて手に力を入れたが無理やり引き剥がされた。そのままソファに連れていかれて座らされる。御堂に拒まれた、昨日の夢がまた蘇る。克哉を拒む必死な叫びに夢の中ではあんなに興奮していたが、今となっては不快感をもって耳の中で木霊する。まるで現実のように、生々しい夢の中の感触が、いまだに掌から消えない。
「夢、だよな……
 言い聞かせるように呟く。けれど、それは、夢でありながら過去に実際にあったことだと、克哉は知っている。知っていて克哉は、それをただの夢だと思いこもうと、した。



 Mr.Rの寄こした眼鏡をかけた自分。眼鏡をかける前の自分。今の自分。三人の自分がいるとして、夢の中の自分は、二回とも、Mr.Rの眼鏡によって麻薬的な興奮の中にいる自分だった。
(あんなに何度も拒んだのに)
それでもまた出てくるつもりか?
 自分の中にいまだ巣くっているらしいもう一人の自分に、克哉は苦笑する。
 しぶといのは、石榴を渡したMr.Rなのか。それとも、自分自身なのか。
 それとも、いまだにあんな果実を食べたりする自分への警告が昨日の夢、だったのだろうか。
 ソファにもたれかかったまま、ぼんやりとそんなことを考える。あまりにリアルな夢は、身体を休息させてはくれなかったようで、徹夜明けのように思考がまとまらない。手で髪をぐちゃぐちゃに乱して、なんとか眠気をさまそうとするが、頭はもやがかかったままだ。
 眠気を覚まそうとおおきく伸びをすると、ソファがぎし、と小さく音を立てる。夢じゃないほうの御堂を昨日ここでも啼かせた。そちらの記憶を思い出すことで昨日の夢を身体の中から追い出そうとして、ソファへと指を這わせる。昨日は、御堂の熱で革張りのソファに熱がこもっていた。二人の汗で吸いつくような感触を味わった。喘ぐ御堂の声を、耳元で再生する。悲鳴を上げる声は同じ人間のものでも、その甘さは圧倒的に違う。恐怖に悲鳴をあげる声よりも、愛情を隠しきれない喘ぎのほうが、ずっと耳を興奮させる。それくらい、今の克哉はよく分かっている。
 ため息をついて煙草に手を伸ばす。煙草を欲しているのが、「どの」自分かなんて考えるのはバカバカしい。自分は、自分でしかない。腐抜けた自分も、御堂を傷つけたのも、全部佐伯克哉であることに違いなどない。
 火をつけて、深く煙を肺に吸い込む。身体の芯から、興奮が、少しずつ覚めてゆく。
 御堂のシャワーの音が、聞こえる。
 掌に思い起こさせた御堂の肌の感触を、もう一度味わいたいと思った。そうすれば、少しは眠気が覚めるかもしれない。
 煙草を灰皿に押し付けると、ゆっくりと立ち上がる。立ち上っていた煙は、じきに消えた。

 

 テーブルに眼鏡を置くと、そのままバスルームへと歩いて行った。中からは御堂がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。もう体は洗い終わったのか、擦りガラスの向こうの裸はじっと湯を浴びているようだ。
 自分も服を脱いで全裸になると、御堂に声をかけた。少し慌てているようだが、気にせずにバスルームへと入る。均整の取れた綺麗な身体だ。目にすると余計に触れたくなって、後ろからそのまま抱きつく。湯を浴びて少し火照った身体が気持ちいい。
「あんたの裸に触れたいんだ。あがってしまったら、間に合わないだろう?」
「昨日あれだけやって、寝てる間もそういう夢を見ておいて、さらにまたそんなことを言うのか……
 理解できない、というように御堂がそんなことを言う。そんな夢を見たからこそだ、と思うがそれは言わない。
 御堂の身体に触れていると、まるで何か癒しの成分でも注入されているかのように、高ぶった心が落ち着いてゆく。性的な意味でなくても、恋人同士の触れ合いには充分な意味があると思う。より肌の感触を味わいたいと思ったが、撫でまわしてしまえばどちらもすぐにスイッチが入ってしまいそうで、そのまま力を抜いて御堂の身体にもたれかかる。
「あんたが思っているよりずっと、俺は御堂さんのことが好きなんですよ。それに別にやりたい訳じゃない。ただ……あんたに……触れていたい」
「佐伯……
 それ以上は、御堂も拒むことをやめて、抱きしめられるがままになってくれている。二人の間にシャワーの湯が当たる。熱めの湯が、身体にまとわりついた夢の名残を洗い流していくようだ。
 このまま何も考えないでいれば、何事もなかったようにまた日常に戻るような、そんな気もしてくる。
……おかしな夢でも見たのか?」
 御堂が突然、そう言った。
 どちらの夢の話をしているのか分からないが、どちらにしろ「おかしな夢」に変わりはない。
「そう、だな」
 答える。おかしな夢だった。似ているようで、全く違うような二つの夢。
 一つは、過去の再現。あれは、本当にあったことだ。夢の中ではいくら興奮しても、目が覚めてしまえばそれは自分の罪に他ならない。過去にあったからこその生々しさが、胸を焼く。
 けれど、石榴が見せた夢。あれは、本当に夢だったのだろうか?
 過去ではないはずなのに、妙にリアルで、御堂の悲鳴も、嘆願も、喘ぐ声も、握りしめたモノの硬さも、熱さも、滑る体液も、差し込んだ金属が御堂の体温に合わせて熱くなっていった様さえまだ記憶に残っている。
(Mr.Rの渡してきたものだけに、気にならないといえば嘘になる)
 あの夢を見た日の夜、家に帰った時の御堂はどこかおかしかった。
……
まるで、散々な責め苦に啼かされた後のような。
 夢の中とはいえ、いまだに御堂を啼かせる「自分」に少々うんざりとする。結局自分はそういう性癖の持ち主なのだという自覚はあるし、隙あらば御堂と変態的なプレイを楽しみたいとも思っている。口では嫌だと言いながら、それでも最終的には自分を許し行為に夢中になってくれることに、喜びを感じるのは事実だ。だから、行為自体については、御堂さえ許せばいつか楽しんでみたいとすら思うし、いい夢だったと言えなくもない。
 けれど、あの夢の中で御堂は怯えていた。
 怯えて、叫ぶその声を、自分は気持ちいいと感じていた。
 
 気づけば、御堂は克哉に抱かれるまま身じろぎひとつしていない。後ろから覗きこめば、何か自分同様考え込んでいるようだった。
(本当に、あれは夢か?)
 もう一度そう自問する。あの日から、自分だけでなく御堂の様子も少しおかしい。
「御堂さん」
「ん?」
 我に返ったように反応を返す御堂を見て、やはり何か考え込んでいたのだと気づく。二人とも、気づけば何もせずただただ湯を浴び続けていた。色気も何もなく、大の大人二人が何をしてるんだか、そんな気分になる。どうせならこのままこのなめらかな肌に手を触れてしまいたいが、何故かあんな夢を見た後だと躊躇われた。
「いい加減シャワーを浴び続けるのにも飽きたな。だからといってまさぐってたらまた止められなくなりそうだ。そろそろあがりませんか」
……ああ、そうだな。湯あたりする前にあがろうか」
「ええ」
 そう言って、御堂の手を離す。
 自分の中には、いくつかの自分が混在している。
 それはけして、澤村の件があった後も、どうやら変わってはいないらしい。
(でもまさか)
 ……夢の中の、眼鏡をかけた自分までがあんな風に御堂の愛情を確かめたがっているとは。
 そんなことを思って、克哉は少し苦笑した。
 今の自分も、あの怯えたような弱い自分も、Mr.Rの眼鏡をかけた自分も。
 その誰もが御堂を愛していて、もっと深く手に入れたいと願っている。
 御堂の愛情を確かめたがって、こうやって御堂に触れたがっている。
 そう言う意味では、結局、人格だ何だと言ったところで、自分は一人なのだと克哉は思った。
 夢の中の御堂は、そんな自分を愛している、と言ってくれたが。
本物の御堂は、克哉のどこまでを受け入れてくれるのだろうか。

 バスルームから出ようと、扉を開ける。ひんやりとした空気が入り込んで、せっかく得た御堂の肌のぬくもりが、失われるようなそんな気分になった。
(また、触れたい)
 そんな欲望に突き動かされる自分は、どうかしているのかもしれない。
 けれど、幾つもの自分が同時に御堂を欲しているのだ、しょうがないじゃないか、なんて開き直りをしながら御堂のほうを振り返ろうとした。
……夢の続きを、しないか」
 突然身体を抱きしめられて、そうしてそのままそんな珍しい提案をされる。
夢の、続き。
 先ほど考えたばかりのことを、どうしても意識してしまう。
 珍しく克哉は何も言えずに、御堂の手を握りしめる。
 どうか、これから先何があっても、この手が振りほどかれることがないように、と。

 

 

 

inserted by FC2 system