『夢のあと』

 

 

御堂孝典がおかしな夢を見てから数日が経つ。
 あの夢を見た後も、帰ってきた佐伯はいつもと変わりないように見えた。当たり前だ。夢というのはあくまで一人で見るもので、佐伯には何の関係もないのだから。意地悪で不遜でそれでいて時折酷く優しい、そんな恋人に、私はあいかわらず翻弄されている。詳しくは言わないが、昨日もそうやって、佐伯と長い時間をベッドで過ごした。最終的にはどうやら気絶してしまったらしく、気づいたら朝を迎えていた。よほど深い眠りに落ちていたのか、夢すら見なかった。眠りについた時には全裸だったはずだが、目が覚めたらきちんと下着もナイトウェアも身につけている。後処理をされている間も一切目覚めないほどに深く眠っていたらしい。今日が休みだったからよかったようなものの、首筋にはいまだにキスマークがべったりとついている。相変わらず信じられないようなことをする男だ。
 それでも、佐伯の瞳の奥にはいつも私への愛情が透けて見える。その色をいつまでも見て居たいと願ってしまうから、私は佐伯の手管から逃げることができない。
「佐伯。おはよう」
 珍しく私より遅くに佐伯が起きてきた。まだきちんと目覚めていないのか、どこか遠くを見ているようだ。こんなに隙がある佐伯の姿などめったに見ることは出来ない。他の誰も見たことはないだろうと思うと、少しこそばゆいような気持になる。
「ああ、御堂さん」
 寝ぼけた目がようやく私を認識したようだ。
 私のほうに向かってくると、そのまま倒れ込むように私を抱きすくめる。全身の力を抜いているのか、多少重たい。首筋に佐伯の顔があって、彼の吐く息が首にかかる。官能を刺激されるほどではないが、少しこそばゆい。
「どうした? 珍しいな。君がこんなに寝起きが悪いなんて」
 首筋にかかる息は、まるで眠っている人間のようだ。どうやらまだ身体が目覚めていないらしい。
「ああ。……夢を見ていたらしい」
 いつもよりさらに低い声。
「夢?」
 言われて、少しどきりとする。この間おかしな夢を見てから、私はどこか少しおかしい。たかが夢なのだから目覚めたらすぐに忘れてしまえばいいのに、まるで現実だったかのように、その記憶は生々しく私のうちに蘇ってくる。身体がピリピリと痺れるような。恐怖と快楽が混じっているような。
「あんたとセックスする夢だ……
 言われてぎょっとする。私は昨日は夢は見ていない。だというのに言われた言葉に、この間の夢の内容を盗み見られたような気持になってしまう。
「君はあれだけやった後でまたそんな夢を見たのか。信じられないな」
「仕方ないだろう。夢なんだ。見ようとして見てるもんじゃない」
「本当に節操ないな」
「あんたがエロすぎるからいけないんだ。あんなに嫌らしい姿を散々見せるから、夢にまであんたが出てきた」
「馬鹿なことを、いうな」
 佐伯が見た夢の内容が気にならないと言えば嘘になる。だが、下手に思い出させるとまたその内容を再現しようとか言い出しかねないのであえて聞かないことにして、佐伯を引き剥がして無理やりソファに座らせると、風呂に入ろうとバスルームへと向かった。幾ら処理してくれているとはいえ、昨日の名残を肌に残したままでいるのは居たたまれない。
「夢、だよな……
 佐伯が、呟くのが聞こえた。



 シャワーを浴びる。熱い湯が、全身を洗い流してゆく。静けさの中、水音だけが室内を埋めている。身体を覆っていた泡が排水溝に流されていくのに合わせて昨日の名残は薄れて消えてゆくが、かわりに「夢」というキーワードから先日の記憶がよみがえる。佐伯はどんな夢を見たのだろう。佐伯は、深層心理にどんな私を求めただろう。私が見たあの夢は、……私の願望だっただろうか? そうではないような気がする。何故だかわからないが、あれは私の内に沸いて出たものではない、そんな気がしてならない。自分の中にあんなおかしな欲望などないと信じたいのもあるが、夢の中、私は求めていたというよりも、求められていた、そんな気がする。
「御堂さん」
 外から佐伯が声をかけてくる。
「なんだ?」
「入るぞ」
「はっ?」
 佐伯の言葉の意味を理解するより前に、佐伯が室内に入ってくる。すでに全裸になっている姿に、御堂は思わず身を引いた。
「なんのつもりだ」
「汗をかいたから……シャワーを浴びようと思っただけだ」
 気づけば眼鏡もかけていない。
「私があがるまで待てないのか」
「ああ。待てないな」
 室内に入ってきた佐伯が、そのまま私の背後に回ると腰に手をまわしてくる。シャワーの湯が二人に降り注ぐ。
「あんたの裸に触れたいんだ。あがってしまったら、間に合わないだろう?」
「昨日あれだけやって、寝てる間もそういう夢を見ておいて、さらにまたそんなことを言うのか……
 ため息をつく。佐伯の手は、御堂の身体をじっと抱きしめたまま動こうとはしない。
「あんたが思っているよりずっと、俺は御堂さんのことが好きなんですよ。それに別にやりたい訳じゃない。ただ……あんたに……触れていたい」
「佐伯……
 珍しくしおらしいことを言う。振り返ると、佐伯は真面目な顔をしている。昨日の疲れがでているのだろうか。らしくない姿だ。
……おかしな夢でも見たのか?」
「そう、だな」
 珍しく素直な佐伯に、少し心配になる。
 彼が見たのは、私が見た夢とは、随分違う内容だったようだ。
 眼鏡もかけず、シャワーで髪の毛も降りた佐伯の姿は、いつもより少し優しく見える。
(人格の、乖離)
 以前佐伯が言っていたそんな言葉を、ふと思い出した。今の佐伯は確かに眼鏡もかけていないし前髪も下がっている。けれど、私が愛した佐伯克哉であることに変わりはないように見える。澤村の件があった時に私が彼の眼鏡を外したけれど、その時も今と同じで私にとっては何ら違いのない佐伯自身だった。
 けれど、夢の中の佐伯。それは、二年前私が恐れた佐伯だった。あの佐伯克哉は、今ここにいる佐伯とは何かが違う。同じ人物であると頭では理解していても、どこか違和感を覚える。二年前、私が知っていた佐伯は今のように眼鏡もかけておらず今よりもっと怯えたような、弱弱しくも見える男か、そうでなければ夢に見たような冷淡で、鬼畜な男か、そのどちらかだった。
 (もし、「あの」男がまだ、目の前にいる佐伯の中に眠っているとしたら)
 そこまで考えて、少しぞくりとする。
 夢の中の自分は佐伯に怯えていた。あの頃のように、怯えながらそれでも感じることを止められないでいた。残酷さのままに私を弄った男に、私はなんと答えたのだったか。
「御堂さん」
「ん?」
 名前を呼ばれて我に返る。
「何か、考え事か」
「いや。何でもない。私も寝起きだからな、ぼうっとしていたのかもしれない」
「ふぅん。あんたのことだから、俺に抱きしめられてよからぬ妄想でもしてるのかと思った」
「君じゃあるまいしそんなことを考えるわけないだろう」
「まあ、確かに勃ってはいないな」
「君は……
「いい加減シャワーを浴び続けるのにも飽きたな。だからといってまさぐってたらまた止められなくなりそうだ。そろそろあがりませんか」
……ああ、そうだな。湯あたりする前にあがろうか」
「ええ」
(好きだ、そう、伝えた)
 きっと本物の佐伯がああなったとしても、夢の中でそうだったように、私は彼に抱かれればむせび泣いて絶頂に達するのだろう。佐伯を拒絶していた頃から、彼のその手管を拒むことなど出来なかった。求められれば拒むことなど出来ない。どれだけ酷い目にあわされても、佐伯がどんな人間だったとしても、彼の中にある全てから、私は逃れられない。ひりひりとするようなその欲求は、いつも佐伯一人に対してだけ貪欲だ。それだけ佐伯のことを、愛している。愛しているのだと、あの夢を見て、私は思い知った。私は結局、あの頃の私を陵辱した佐伯のことをすら、どうしようもなく、愛している。彼が求めるならば、私は最終的に何だって差し出してしまうだろう。
 不安に思うとしたら、一つだけだ。
 もし、また佐伯がああなったとして。
 陵辱の果てに、我に返った佐伯は、私から離れたりしないだろうか?
 どうしても怯えることを止められない私に、彼が傷ついたり、しないだろうか。
 出来れば佐伯に今のままで居てほしいと思うのは、佐伯に二度とどこにもいかないでほしいと、そう願うからだ。

 シャワーを止めている間に、佐伯が先に浴室から出ようと扉を開ける。室内に閉じ込められていた熱気が逃げ、新しい空気が入り込んでくる。息苦しさからは解放されたが、何故か物足りないような、隙間があいたような、そんな気分にさせられる。
「佐伯」
 手を引いて、捕まえたその腰に手を回す。
……夢の続きを、しないか」
 自分でも思ってもみなかったような提案が口から零れる。振り返った佐伯は、珍しく何も言わずに、私の腕に手を重ねた。

 

 

 

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