『言い訳』

 

 

 自分の部屋で一人、御堂孝典は戸惑っていた。

 今御堂が住んでいる部屋は、MGNに居た頃に住んでいた家よりやや狭い。MGNを辞めた後も運良く年収はさほど変わらなかったが、あの頃はとにかく家を出ることを急いでいたから、一時避難のつもりで手っ取り早く引っ越せて初期費用もあまりかからない場所を選んだ。

 それから一年は仕事にのめり込むことで過去から逃げようとしていたから、御堂の部屋はいまだに家具も最低限の物以外は揃っていないし、生活感があまりない。

無機質な部屋の真ん中に立ちすくんだまま、御堂は一歩も動けずにいた。

(どうしたものか)

 仕事が終わり、今日は平日だったからそのまま家に帰ってきた。たった二名しかいない立ち上げたばかりの会社だから、仕事がすべて終わった時には22時を回っていた。明日も仕事だ。だから、帰ってきたのは正解だった、はずだ。

 それでも一人の家で、スーツも脱がずに、御堂は部屋に立ちすくんでいる。

 先ほどから御堂を悩ませているのは、ある一つの欲望ゆえだ。

(……セックスが、したい)

 長時間にわたった仕事で疲れている。週はもう半ばだから、佐伯とも数日寝ていない。健康的な成年男性として、欲求自体はごくごく当たり前なものだし、御堂は元からそれなりに性的な欲求はあるほうだ。佐伯に出会う前は、その時居た彼女を呼びだすか、付き合っている女性がいない時でも適当に見繕う相手には不自由しなかった。佐伯と一度離れたあとは、そういう欲求に悩まされたとしても、欲求以上に嫌悪感が増してしまい、めったに行為にいたることはなかった。結果としてこの部屋には一人で処理ができるようなDVDも、本も、何も置いていない。さすがに今更風俗などに行く気にはなれない。

(喉がかわく)

 頭にちらちらと浮かぶのは御堂を嫌らしい目で見つめてくる佐伯の眼鏡ごしの瞳や、身体を這う節ばった指や、柔らかい唇や、身体の間にそそり立つモノだ。

 目を瞑るだけで、臀部に押し付けられたモノの硬さが肌に浮かぶような気がして、御堂はいたたまれない気持ちになった。

 佐伯と出会ってから、人間の三大欲求のうちの一つが、イコールであの男と紐づけられてしまっている。前を擦るだけでは得られないその悦びを、身体が自然と求めている。それ以外の形で発散させようとしても発散できないほどに、それは根深く御堂の中に巣くっている。

 御堂の手がネクタイの結び目へと伸びる。息苦しいような思いに囚われて、自然と緩める。絹が擦れる音を聞くだけで、佐伯がそれを外す時のことを思い浮かべてしまう。喉が鳴る。じっとしていられないような、それでいてどうしていいか分からないような戸惑いが、椅子に座ることもないまま御堂を立ちすくませていた。

(理由がない)

 いったんまっすぐ家に帰っておいて、佐伯の家に今から向かう理由がない。今行けば、セックスをしてほしいと言いに行くようなものだ。そんな恥ずかしいことは、出来るわけがない。

ネクタイを取り去ると、少しは息苦しさから開放された。スーツを脱ごうと思い、ようやく足を無理やり動かして寝室へと向かう。御堂の部屋のベッドは、偶然にも佐伯の家のベッドと似たような形をしているから、ただでさえ頭の中が佐伯でいっぱいの時に見ると、さらに妄想が広がってしまう。

 きっと、佐伯の家に行けば、何も言わなくとも佐伯は御堂を抱くだろう。あいつは、セックスで頭の中の半分が埋め尽くされているような男だ。なんだかんだと理由をつけて、職場でだって出先でだって、佐伯の気が向いた時にはいつもそういうことになった。御堂の気分がのらない時にだって、強引に御堂をその気にさせて好きなようにしてきた。だから、御堂は佐伯の部屋に行くだけで、この欲求を埋めることができるに違いなかった。

(だが)

 明日も仕事が早い。仕事は佳境に入っている。新しい取引先との打ち合わせの予定も入っている。明日に備えて今日は早く寝るべきだし、仕事の打合せは住んでいるからこれから佐伯の家に行く理由がない。それ以上に、御堂は自分のなかに絶えず生まれてくるその欲求にいまだ慣れることができていない。

 ネクタイをクローゼットにかける。スーツもブラシをかけてそのままハンガーにかけてしまう。シャツ一枚になって、部屋着に着替えずにそのままバスルームへと向かう。今日は佐伯の家に行くわけにはいかない。熱は散らしてしまって、はやいうちに、眠りにつくべきだ。

 途中通った鏡に映る自分の顔が、多少赤くなっているように見える。癪に障る顔だ。今までの自分なら浮かべることのない顔だった。与えられるよりもいつも好きに奪ってきた。こんな風に、与えられなければ満たされない欲求など、抱えたことがなかった。自分ひとりで処理しきれない感情に、御堂はいまだ慣れることができていないし、慣れてしまっていいものか、いまだ迷っている。

 裸になって、冷えたバスルームに足を踏み入れる。シャワーのコックを開く。熱い湯が、御堂の全身に降り注ぐ。

 シャワーを浴びるたびに、忘れられない日を思い出す。熱い湯を浴びて、身体に張り付くシャツの感触が蘇る。背中を抱く手が御堂を締めつける。今はあれから遠い時間で、場所も違っていて、御堂と佐伯の関係も変化している。それでも一人でシャワーを浴びると、ときおりこうしてあの日のことを思い出す。

(本当に、いいのだろうか)

 無理やりに身体にしみ込まされたそれは、本当に持っていていい欲求なのだろうか。あんな風に無理強いされたそれに、こんな風に慣れてしまっていいのだろうか。あんなに強く拒んだはずのそれに、こんなにも簡単に心を埋め尽くされていいものだろうか。

佐伯とともにいることにはすでに覚悟はついた。御堂は佐伯を愛しているし、向こうも御堂のことを想ってくれていることを、今ならきちんと感じ取ることができる。御堂が佐伯を好ましく思うのは、けして性的な相性だけの問題ではない。才能も、顔も、さりげなく見せるようになった優しさも、御堂だけに見せる安らいだような笑顔も、すべてが御堂の心を掴んでいる。二人はパートナーだし、恋人で、それを恥ずべき事だとは思わない。

 だが、こと性的なことに限って言えば、御堂はまだ迷っている。

 今まで生きてきた三十数年一度たりとも沸いてきたことのないこの欲求は、あまり褒められた経緯で御堂に植えつけられたものではない。あれがあったからこそ二人は今共にいる。それはそうなのだが、だからと言ってあの倒錯的な三カ月は、すべて好意的に受け止めてしまうにはあまりに御堂にとって重かった。

「佐伯……」

 熱い湯が御堂の身体を打つ。肌に浮かびあがる感情は、消えるどころかさらにその輪郭をはっきりとさせてゆくようだ。蒸気が籠る室内には、燃えはじめた熱情の行き場がない。

 抱かれることを気持ちいいと思うようになるなんて、思っていなかった。

 突きいれる気持よさ以上のものがあるなんて知らなかった。

 それをどうやって伝えればいいのかなんて知る筈がない。

 唇を重ねて服を脱がせるのは簡単なのに、服を脱がせてゆく手をもどかしく待つのにはいつまでたっても慣れることがない。そもそも自分には似合わない。こんな風に、相手のことを考えて居ても経ってもいられない思いを噛み殺しているのなんて、自分らしくないにもほどがある。

 身体を拭いて、バスルームから出た。バスローブを羽織って、髪をタオルで無造作に拭く。濡れた自分の顔は、バスルームへ向かう前同様、もしかしたらそれ以上に火照って、物欲しげに見える。

 携帯が鳴る音がする。

 思わず走るようにして、御堂はリビングへと向かう。無意識に、電話の相手が佐伯克哉であることを祈っている。

 まだ完全に乾いていない手を気にしながら電話を取る。すでに鳴りやんでしまっている携帯電話が示しているのは、昔の友人からの着信だった。

 御堂はため息をついて携帯を握りしめたまま立ちすくんだ。かけ直す気にはなれない。それよりも、リダイヤルページの、友人の次に表示された名前のほうが気になってしまう。

 そのボタンを押す、言い訳が、何もない。

「私は、何を迷っているんだ」

 恋人に、会いたいと願い、会いに行くのに理由など必要があるはずないのに。

 あの男なら、いつだって理由も何もなく好きに行動してきただろうに。

 いくら考えたところで、答えなんか分かるはずがない。熾き火のように揺らめくこれが、御堂のうちに元からあったものなのか、それとも佐伯によって植えつけられたものなのかなんてことは今更分かるわけがない。受け入れるにしろ受け入れられないにしろ、起こった事実は変わらない。性的欲望だって、恋情の一部には変わりがない。会いたいと思うことに、唇を重ねたいと思うことに、その掌に触れたいと思うことにそれ以上の理由も何もない。幾ら一人で悩んだところで、起こってしまった過去は変えることは出来ないし、少なくとも今は、会いたいと願った時に御堂と佐伯を遮るものなど何もないのだ。

 ただ一歩。御堂が足を踏み出しさえすれば、欲望は余すところなく叶えられる。

 抱かれたい、なんてことを考えて悩むのも確かに御堂らしくないが、それ以上に欲望に躊躇するのも、すでに起こってしまったことをうだうだと悩むのも、言い訳を探して右往左往するのも御堂には似合わない。

 そもそも、佐伯にどんな言い訳などしたところで、どうやったってセックスの刺激的なエッセンスにされてしまっているのは目に見えている。それを嫌じゃないと思ってしまっている辺り、もはや手遅れなのだろう。

「……会いに、行くか」

 せめて今日は、されるがままではなく、唇くらいはこちらから奪ってやろう。そんなことを考えながら、御堂はシャツに袖を通して、携帯電話を手に取った。

 

 

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