「エスケープ」

 

 

 

「暑いのは嫌いだと、以前に聞いたような気がするが。何故ここを選んだんだ?」

 御堂が、ホテルの部屋のソファに座って、窓の外に広がる景色をぼんやりと見ながら、克哉にそう尋ねた。

 昼の二時。チェックインを終えて、荷物も一通りあるべき場所に片づけてのようやく落ち着けるひととき。時差は三時間。一週間の休みを得るためにここ数日はいつもよりさらに仕事量が多かったこともあり、心地良い疲れが身体を覆っている。

多少の喉の渇きを覚えて、ウェルカムフルーツを摘まもうと手を伸ばしながら克哉が御堂を振り返る。

「何もすることがないほうが、ゆっくり出来るだろう?」

 部屋からの眺めはすべて、青い海と、真白い砂浜と、更に深く濃い海の色で彩られている。どこまでも広がる風景は、夏の暑さと感じさせるというよりかは、あまりに完璧に出来過ぎていて、絵画を見ているような気分にさせられる。いくら見ていても見飽きることがないような、どこまでも続く水平線とコントラスト。美しさに惚れぼれとして溜息をつきながら、御堂は仕事で疲れた体をソファへと、隣に座る克哉の体へと預けている。

 確かに他に何もすることがないと思えば、こうして贅沢にただただ風景を見ていることに、何の罪悪感を覚える必要もない。隣には、恋人が居る。旅に必要なものは、たったそれだけ、なのかもしれなかった。

 アジアの小島をまるまる一つ買い取って作られた贅沢な高級リゾートは、世界各国の要人も訪れる名の知れた隠れ家として世界では人気だが、日本人にはあまり知られていないのか部屋までの道のりを案内される間は日本人らしきグループとは一度もすれ違わなかった。チェックインもすべて英語で交わされる。二人とも日常会話には困らなかったが、非母国語で交わされる会話は、自分達が今日常とは違う、特別な場所に来ているのだということを意識するきっかけになる。すれ違うたびにgood afternoon、声をかけて笑顔で礼をするスタッフは、礼儀正しく有りながらも肩の力が抜けていて、見ていて気持ちがいい。

島に降り立ったのが朝十時。チェックインの時間まではホテルに荷物を置いて、近くのレストランでブランチを楽しんだ。時間はたっぷりあったから、食事もあまりきちんとしたコースを頼むのではなく、少しずつツマミになるようなものをチョイスしながら旨いワインを飲んだ。時間がやや早いこともあり、店は空いていて、割りにいい席に案内されたこともあって、テーブルの下でちょっかいをかけてくる指先を握り締めたり、美味いオードブルを手ずから克哉に食べさせたり、お互いのことだけを考えていられる時間を楽しむことができた。

人の目を気にせずに克哉と時間を共に出来る。それは思った以上に心に開放感をもたらしてくれる。

「せっかく一週間もあったんだから、ヨーロッパまで出ても良かったと思うが……」

 ここに来た意味は少ない時間で十分に感受していたが、克哉の意図が気になって御堂はそういう風に尋ねた。はじめての夏の休暇として二人が確保したのは七日間。行こうと思えば、フランスにでも、モナコにでも、克哉が好きなチェコにでも行くことが出来ただろう。

「ヨーロッパに行けば、あんたにはすることがたくさんあるんだろう? 観光をしたり、ワインの出来を見に行ったり」

「まあ、それはそうだろうな」

 克哉とこういう風になる前に、何度もヨーロッパには足を運んでいるが、だいたいそういうプランは旅行の日程の中のどこかに入っていた。まあ、今回は真夏だから、そこまで様々な場所に歩きまわる、ということもなかっただろうが、今回の旅ほどにプランも何もなくただホテルにいることを選ぶ、ということは無かっただろう。

 海外には、日本にだけ居たのでは得られない仕事のヒントも多数散らばっている。そういうものに触れながら街を巡るのも、なかなかに楽しい旅ではあるのだが。

「今回は、あんたとゆっくり二人きりで、十分にセックスがしたかったんだ。だから、ここを選んだ」

「なっ」

「海しかない島にある、広くて快適なリゾートホテルですることと言ったら、景色を眺めるか、体を休めるか、セックスをするかのどれか、だろう?」

「……普通は、それだけではないと、思うが。ウマい食事もあるし、海を泳ぐことまではしなくとも、海岸線を散歩するのも悪くない。なかなか普段時間を取れない分読書を楽しむのもいいし……」

 所謂リゾートの過ごし方、を並べ立てるが、自分でも克哉がそういうことをこの旅に求めていないだろうことは、すでに分かっている。

 照れ隠しのしかめ面をおかしそうに見た克哉が、ふいに唇を重ねてくる。

「この旅の目的は、十分な休息と、セックス。それだけで十分だ」

 直球で言われてしまって、御堂は逃げられずに唇をただ受け入れるしかなくなる。いつものような性急さではなく、柔らかく、ゆっくりと差し入れられる舌に、体の芯に熱が灯ってゆく。先ほど果物を食べていた唇は、少し甘酸っぱい味がした。

「そんなの、いつもと変わらない、だろう?」

 何とかそういう流れから逃れようとして、唇が離れた隙をついて抗議するが、御堂自身すでに克哉の申し出を、悪くないと感じ始めてしまっている。

克哉と暮らすようになってからというもの、休日の多くの時間はそういう風に使われてきた。過去の自分にはなかった、怠惰で非生産的な時間が、どれくらい得難い幸せか、自分はすでに体中で身にしみている。身にしみて、はいるし正直ここまで流されてしまえば後は自分の中の欲望をもう抑えられそうにはないが、ここで素直に流されてしまうと下手をすれば二つの目的のうちの「休息」すら十分に取れなくなる可能性もある。

「そんなに非日常が欲しいのなら、いつもとは比べ物にならないほどにすればいい」

 ニヤリと笑みを浮かべたまま、手の平が質のいい麻のシャツの下を這いはじめて、御堂はそれ以上の戯言を諦め代わりに熱い溜息を零した。

 

 

 

 

 

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