ランドオブミュージック

 

 

 

「ねえ、克哉さん。今日の夜、ライブ見に行かない?」

 まだ、昼を超えて間もない時間。MGNでの打ち合わせからの帰り道、二人は一仕事終えた心地よい疲労感を抱えながらホテルへの道のりを歩いていた。あの御堂が曲を褒めるなんてすごいことだ、とか、この売れ行きなら第二弾もありうるかもね、とかそういう話がひと段落ついた時に、太一がそう克哉に声をかけた。

「ん? いいよ。誰のライブ?」

 隣の克哉が、軽くそう答える。

「んー。多分克哉さん知らないと思う。そんなに有名な人じゃないんだ」

 太一は少しだけ考え込みながらそう答えた。

「そうなんだ。でもいいよ。太一が良いって思うアーティストって外れないもんね」

「……本当にいいかどうか、わかんないけどね」

 太一の目が、少し遠くを見ている。克哉はその顔を覗き込んで首をかしげた。いつも自分の好きなアーティストのライブ前だと、尻尾を振る姿が見えそうなほどにはしゃいでいるのに今日は何やら神妙な面持ちをしている。

「気が乗らない?」

「うーん。そう言うわけでもないんだけど。俺が中学校の時にすっごく好きだったバンドがあってさー。まだ、そんなに音楽に目覚める前だったんだけど、ものすごくハマってて。とにかく力強いロックバンドだったんだけど、歌詞がものすごく心揺さぶられるかんじでさ。触れると切れちゃうような、そんなエッジの聞いたボーカルに、すごい憧れてて」

「へえ。そうなんだ。いいね。太一の好きなバンドならオレも絶対好きだろうし聞いてみたいよ」

「でもさあ。中学校の頃はすごく好きだったんだけど、その後洋楽聴くようになっちゃってさ。そしたらなんだか色褪せて見えちゃって、それからずっと聴いてなくて。所詮J-POPじゃんって馬鹿にしてた時期もあって。だから、なんだか複雑なんだよね」

「なるほどね」

「まさか未だにやってると思わなくってさ。ついチケット買ったんだけど、今さら見ても、おじさんになってるだろうし。このチケットを見る限りどうやらバンドじゃなくてソロみたいなんだよね。よくあるじゃん? 年とって丸くなって、昔売れた曲で食いつなぐためにだけ音楽やってるようなやつって。もしそんなんだったら、がっかりするかもしれないなって思って」

「そうかな。もしそうだとしても、すごく好きな音楽だったんでしょう? 昔を思い出したりして、けっこう懐かしくて楽しいんじゃないかな」

「うん、……そうだといいけど。なんか一人で聴きに行くのもちょっと面倒でさ。克哉さんと一緒ならどこにいたって楽しいし、付きあってくれる?」

「いいよ。太一が聴いてきた音楽、聴いてみたいよ。太一を作り上げてきたすべてのものを知りたい」

「克哉さん……」

「いこうよ太一」

柔らかく笑う克哉の横顔を見て、太一もまた迷いを振り切るように、笑った。

 

 

 

 堅苦しいスーツから私服に着替えようと、一度ホテルに戻った。太一はまだ日本ではさほど有名でもないけれど、音楽関係者だと顔が割れている可能性もあるから、とサングラスを物色している。最近年を重ねて大人の魅力が出てきたその後ろ姿が凛凛しくて、克哉は嬉しそうにそれを見た。

「そういえば。ハコ、どこなの?」

「んー。なんか全然知らないとこだったな。俺達がアメリカ行ってる間に出来たとこみたい」

「ふーん、見せて」

 チケットを太一から受け取ると克哉はしげしげと見ている。残念ながら、アーティストの名前もライブハウスの名前もどちらも見知らぬものだった。新しいハコなのだろう。地図を見ても、そんな場所にライブハウスがあった覚えはない。はい、と言ってチケットを返すと、受け取った太一はジャケットを脱ぎながらパソコンの前に座り込んだ。

「とりあえずネットでどこにあるか調べてみっかな……」

 と言いながらチケットをひらひらしている。

 克哉もまた私服に着替えようとネクタイを外し、ジャケットを脱ぎながらクローゼットへと向かっていく。

「あ、あった。ここだ」

 ほどなくして見つけたらしい太一が声をあげた。

「ん? どこどこ?」

 声につられて、シャツの前ボタンを三つばかり外した状態で克哉が太一の傍へと近寄ってくると、パソコンを覗き見る。

「あー、ここ、こ……こ……」

 言いながら太一が克哉のほうを振り返る。振り返ってそのまま視線が固まり、唇ににやにや笑いが浮かんだ。

「かーつやさん、そんな色っぽい格好して。俺のこと誘ってるの?」

 言われて自分の格好を省みてみれば、パソコンを覗き込もうと体を折り曲げたシャツの大きく開いた襟元からは、胸元がすべて露わになっていた。あわててシャツの襟首を掴み引き寄せようとするがその前に太一の手が胸元へとすべりこむ。

「だーめ。ここまで見せといて今さら、だよ」

 熱い掌が、そっと胸を撫でる。その刺激に克哉はぴくりと震えた。

「た、いち……」

 仕事で心地よい疲労感を覚えている体は、その手の動きにあっさりと欲望を隠しきれなくなる。

「駄目、だよ……。今から、ライブ、行くんだろう?」

「うーん、なんか面倒になってきちゃった。それよりも、克哉さんとエッチなことしたいなーなんて」

「……だ、め。だよっ」

 体のほうは、続きを求めていたがなんとか体を引きはがした。

「もう、5時じゃないか。会場、ここからそんなに近くないんだろ?遅れちゃうよ。太一、行こう。ね」

「ちぇ。なんで今日に限って流されてくんないんだか」

 引き抜かれた手をひらひらとさせながら、太一はふてくされた様子でつぶやいている。

「だって俺。聴いてみたいもん本当に。もしかしたら、太一の次の曲のヒントになるかもしれないじゃないか。だったら今日は絶対見ておくべきだ」

「……こんな時だけ、しっかりマネージャーなんだから」

「たーいーち」

「分かったよ。行こう。さっさといって、さっさと帰って、思う存分朝までセックスしよう」

「……たい、ち」

 一回目の呼びかけは、諭すように。二回目の呼びかけは、甘く熟れて。今日の夜に繰り広げられるであろう行為を期待していることを太一に伝えてしまう。

「そうと決まったら用意しなくちゃ。克哉さん、行くよ!」

 太一が勢いよく立ちあがり、克哉の腕をひっぱった。

 

 

 

 夜7時前。地下一階にあるそのライブハウスへと二人は降りてゆく。まだ出来て数年なのだろうライブハウスは真新しく、『巣窟』を意味する名前が付けられていた。すでに一般客は中に入ってしまったようで、階段にはビールを片手に雑談中の人間しかいなかった。とりあえずビールとカクテルを買って、二人は中へと滑りこむ。

 まだライブははじまっていなかったが、すでにチューニングはすんでいるのか、ステージ上には誰もいない。

「へぇ」

太一が感心したような声をあげた。

その名の通り、かなり狭い作りになっていたが機材を見ればきちんとした音の出るハコだということはわかる。客はいっぱいだが、会場のキャパからいってせいぜい340人といったところだろうか。二人よりもかなり年齢層の上な客は、会場に流れる古いブルースをバックミュージックに、皆思い思いに雑談を交わしながら酒を飲んでいる。太一に手を取られるままに克哉も会場の端、壁の近くへと足を向けた。

「狭いけど、いいねここ」

 克哉が太一に耳打ちした。太一も、言葉は返さないが頷いている。数年前は太一も、こういうところで一人でやっていた。その時のことを克哉は一人思い返していた。懐かしい。とても大切な思い出だ。

「うちも、一度ブッキングしてみる?」

太一の表情を横目で確認すると、とても真剣な表情をしていた。音楽を作る時のような。ステージに立つ、寸前のような。だから、そう小さい声で聞いてみる。

「たぶん、シークレットにしないとすごいことになりそうだけどね」

「うーん。いや、いいや。今はもっとたくさんの人に聴いてもらいたい」

「……そうだね。売り出し中のバンドとしてはね」

 酒を飲みながら小声で会話を交わしていたら、ふいに照明が絞られる。観客からはざわめきと、拍手。

 これからステージがはじまる、その緊張と高揚が会場の空気を、変える。

 こんなに始まる瞬間に会場すべての空気が切り替わるステージが、悪いわけはない。そんなことを思いながら、克哉はステージへと顔を向けた。

 

 

 

 それから、約一時間半後。

 二部構成になっているライブの前半パートが終わる。少しだけライトがついた会場には、いくつもの感慨深いため息が溢れていた。息もつけずにすっとばしたような心地よい疲労の中、克哉は太一を見た。

「すごい! すごいね!」

 興奮冷めやらない中、克哉が太一を見て言う。

 ライブは、今までみたどのライブとも違っていた。たった一人のアコースティックギターを片手にしたソロライブ。元々ロックで鳴らしてきたカリスマスターの10数年後としてはがっかり、でもおかしくないはずなのに、それはそんな生易しいものではなかった。どうやら曲順すらまともに決めていないらしく、会場の人に「何聴きたい?」なんていいながら進んでいく。肩の力は抜けて、ささやくような声で歌う。ギターの音色もひどく優しい。なのに、それはどんなロックンロールよりも熱い情熱と信念を燃やしていた。生きてきた重みのすべてをバックに入れて抱えながら、それでも愛と幸せを信じている歌を口ずさむように歌う、そんな歌だった。

「……やべえ。克哉さん、やばいわこれ……」

 見れば太一の手が震えている。すでに飲み干されたギネスのビールの紙コップはその手の中で握りつぶされている。

「こんなにすごい歌とギター聴いたことない。あんなに澄んだ6弦の音なんて、俺には出せないし、ギター一本なのにバンドの音全部が聴こえてくる。ソロギターであれだけ多彩に表現できるって何だあれ……」

 ステージ上に置かれたギターはたったの2本だ。どちらも、いいものだと分かるが、使いこまれてぼろぼろのそれから流れてくる音は、とても軽やかに澄んでいてそれでいてかきならせばどんなバンドの音よりも厚みを持って胸を熱くした。

「きて、よかったね」

 克哉が、その手の上に手をそっと重ねる。そうしてくしゃくしゃに握りつぶされたコップをそっととりあげると、ゴミを捨てようと外へと向かった。

「太一は二杯目もギネスでいい?」

 声をかけると、太一は放心状態ながらもなんとか頷いた。

 

 

 

 二人分のお酒を買って、また重たいドアの向こうへと戻ってくると、太一が誰かと話していた。

「ねえ、せっかくだから挨拶いかない?」

 太一にそう声をかける声の主は、よくよく見ると以前お世話になったこともあるライブハウスの店長さんだった。もう60近い、ブルースをこよなく愛する憎めないおじさんで、太一は売れない頃にかなりお世話になったらしい。克哉も数回話をしたことがあった。

「おつかれさまです。おひさしぶりです」

 そう声をかけながら太一の横へと並ぶ。なみなみと注がれたギネスのコップを渡してやると、知りあいと話せたことで太一の顔はやや元の表情に戻っていた。

「ああ。ひさしぶり。マネージャーやってるらしいね。敏腕なんだろう? MGNCMもぎ取ったとか」

「ありがとうございます。MGNは、昔一緒に仕事をしていたコネですから、僕自身はたいしたことはしていないですけど。お元気そうでよかったです」

「おかげさまで。太一にも今言ってたんだけど、今から楽屋に挨拶にいくんだけど、君たちもどう?」

「ええ? お知り合いなんですか」

「うん。うちのライブハウスにも何度か出てくれたことがあってね。今日も招待されて来たんだ。君たちもさ、せっかくだからおいでよ。彼のライブは、一部が終わって二部がはじまるまでがけっこう長いんだ。トイレに行ったり、お酒を飲んだり友達と雑談したり、そういう時間を大切にしたいんだってさ。普通のライブだと、一度はじまっちゃうと終わるまで感想も何も言えないかんじだろう? それじゃ楽しみが半分だからって。だから、今のうちに行っちゃおう」

「……店長、俺は」

「いこうよ太一。オレ、感想がいいたいな」

「そうだよ。おいでおいで」

 二人がかりのアピールに、太一はしぶしぶといった顔のまま、ついてきた。

 

 

 

「こんばんはー。おつかれー」

「おー、店長。ひさしぶり。元気にしてたか?」

 肩を叩きあって話す二人の後ろで、緊張した面持ちのまま太一と克哉は立ちすくんでいた。太一の緊張はかなりのもののようだ。克哉のほうはまだ余裕がある分、楽屋をきょろきょろと見渡していた。荷物もあまり多くない。本当に、ギター一本と少しの機材だけでツアーを回っているみたいだ。テーブルの上には贈られたのだろう花が、きれいに咲いていた。

 ステージの上同様、アーティストはとても落ち着いていて、今日のライブを純粋に楽しんでいる姿がよくわかる。

「あ、紹介するわ。grab your luggageっていうバンドのボーカルとマネージャー。お前の歌、好きなんだってさ」

「ああ、わざわざこんなところまでありがとう」

 ひとしきりの旧友達の再会が盛り上がった後、店長が太一と克哉を紹介した。軽く挨拶と握手をした程度で第二部の時間が来てしまい、結局感想を言うことも出来ずに店長を含めた三人は楽屋を離れて会場へと戻った。

「ごめんな。ついついこっちの話がはずんじゃって、たいした話もできなかったな」

 店長は頭をかきながら謝ると、あとは自分の身内達の集まりへと帰って行った。また、会場の明かりが絞られる。高揚の中、もう一度その歌を聴ける喜びに、会場が沸く。

 太一は、そんな眼前での騒ぎには耳をかさずに、握手したほうの手をじっと見ている。

「太一と、同じ手だったね」

「ん?」

「ギターが好きで好きでしょうがない、手」

 そういうと、太一のタコが出来た指に触れる。指は皮が厚くごつごつとしているが、その指の節は長くすっと伸びていて、とてもきれいだと克哉は思う。太一が自分の手に何を感じているか、なんとなくわかったけれど、克哉はそれには触れずに暗がりの中、太一の手を握りしめた。

「大好きな、手」

「克哉さんの、体を上手に這う、大好きな手?」

 いつもの調子に戻ったのか、太一が厭らしいことを耳もとに囁きかける。くすぐったくて、克哉の肩が少し揺れた。

「左乳首だけを大きくしちゃう、指が好き?」

 その動揺を見て取った太一が、さらに畳みかける。にやにやした笑みに、克哉の耳が赤くなる。暗いからといって大胆な太一の行動に、克哉は一瞬ここがどこだか忘れそうになって、甘い声を放ちそうになった。

 その瞬間、強く鳴り響くギターの音色に、二人は一斉に前を見上げた。

 

 

 

 逆光でシルエットを際立たせる赤い、赤い照明の中、スタンドマイクの下に立つ姿に、視線を奪われる。鳴り響きはじめたメロディーは、聴いたことがある。

「あれ、この曲。太一がたまに歌ってる曲、だよね」

耳元にそっとささやくと、太一が無言のままで頷いた。唾を飲み込んでいるのが、喉仏の動きで分かる。彼にとって、とても大事な曲なんだろうということが、その動きだけで分かった気がした。

「ひさしぶりにさ。これやってみるのもいいかなって」

 ギターをかき鳴らしながら、マイクに向けてボーカリストがつぶやく。アコギだとは思えないほどに激しいシャウトのような轟音が、会場中を震わせている。激しいストロークの手に、弦が切れてしまいそうだった。それは、前半戦に聴いた大人の深みと優しさではなく、ひと振りで切り裂く鋭い鉈。ナイフなんて軽いもんじゃない。ひと振りごとに切り殺されそうな、悪魔の一撃だ。そんなギターをかき鳴らしながら、平然とした表情で笑っている。

「この曲好きなんだけどさー、なかなか今の俺の声のトーンじゃ上手に歌えなくって封印してたんだけど。俺も、もうおじさんだからさ」

 そう言いながら、きょろきょろと会場を見渡している。前半戦同様、客をリラックスさせようとしてか軽い会話のノリだが、聴いている客はといえば、書き鳴らす爆音にまだしびれきったままだ。

「あ。いいこと思いついた」

 にやり、笑う。視線が、こちらを向いている。太一も、克哉もきょとんとした。まさか、という思いが背筋をよぎる。

「なあ、君さ。歌ってよ」

 声をかけた先は、……太一だ。

「は?」

「紹介しまーす。grab your luggageのボーカリスト、五十嵐太一君でーす」

 言いながら、ギターのメロディーは荒れ狂っていたその音からメロディーだけを残している。観客が全員こちらを向いたので、二人はげっという表情をした。あわてて太一はサングラスをより深くかけようとするが、克哉は諦めたように笑った。

「太一。行ってきなよ」

「えええ。克哉さん何いってんの? こんなアウェイで。歌えるわけないじゃん」

「歌えるよ。太一なら。ここのお客さん全員虜に出来るよ。絶対大丈夫」

 そう言って、背中を押してやる。太一は覚悟を決めたのか、すっとサングラスを抜いて克哉の手のうちに握らせると、まいったなあ、と言いながらまんざらでもない表情で前へと進んでゆく。

 ライトが、太一にも照らされる。金色の光が、太一の髪をきらきらと輝かせる。暗いライブハウスの会場から、明るいステージへと一歩一歩進んでいる。

(大丈夫だよ。太一なら、歌える)

 克哉は心からそう思う。とてもとてもすごい、最高のアーティストが目の前でギターを弾いている。でもね。太一なら隣に並べる。こういう音楽を本当に好きだと思っているお客さん達ならば、きっと太一の凄さを分かってくれる。マネージャーとしても、恋人としても、克哉は本気でそう思った。

 太一なら、きっと大丈夫。

 

「さっきさー楽屋に挨拶来てくれて。その後で、うちのマネージャーがちょっとだけ彼の音源聞かせてくれたんだけど、この歌うたうとこ聴いてみたいなあって思ってさ」

 会場の客に向けて説明をしている横に、太一があがりこむ。

「どうもー。太一と言います。って俺本当に歌うのこれ?」

 この会場の主であるボーカリストはしれっとした表情でギターをつま弾いている。はじめっから自分はギタリストですよーっと言いたげにあえて左に立って、ニヤッと笑って挑発した。

「俺の歌、好きなんだろ? だったら歌ってよ。これ、若者のための歌だから。ちゃんと若者のエネルギーとあやうさで歌ってくれよ」

 ライトの下、スタンドマイクを太一が手に取る。客は、不安半分、期待半分といった顔をして、今からはじまる二人のセッションを固唾をのんで見守っている。克哉は、一番奥から会場の空気が変わっていくのを見守っていた。

「……知らないよ? どうなっても」

「楽しみにしてるよ」

 ステージの上の二人は、はじめて会ったとは思えないほどに気軽に会話を交わしている。マイクを通してないけれど、小さい会場だから克哉のところまでその掛け合いが聞こえていた。

「じゃあ、歌います」

 す、と。太一が息を吸う。それを見て、ギターがぽろり、と6弦を奏でる。そうして、大きく振りかぶった腕が、また世界を切り裂いて。

 その真空の中を世界が生まれ変わるほどの強さで、太一の声が、響いた。 

 

 

 

「……かつやさん、かつやさん」

 ライブが終わって。会場に明かりがともって。自分より十以上年上の世代の客層のはずなのに、彼らの表情は子供のように輝いている。凄いものを見た。その喜びに、誰もが口々に語りあい、笑い合い、お酒を片手に歌っているものさえいる。明日への希望と活力。生きていくために必要な力が漲った会場は、その落ち着いたライトの色味よりもずっと明るい。

 克哉もまた、冷めやらぬ興奮のまま会場の端でそんな光景を眺めていたのだが、突然遠くあから名前を呼ぶ声に振り向いた。

 さっき、歌い終えてそのまま楽屋のほうへと消えていった恋人が、会場の端の重たいドアの向こうで小さくなってこちらに手を振っている。

 気づかれないように小さくなっているのが分かるから、頷くと克哉は駆け足で外へと向かった。太一は自分を待たずに先に外に行くことにしたようだ。その背中と揺れる後ろ毛を追いかけて克哉は走った。

「たーいち!」

 階段を上がって店を出て、しばらく走ってはじめて太一に追いついた。

「かっこよかったよ」

 そう言って、太一の顔を見る。その顔は、照れているのか、克哉のほうを向いてはいない。

「いやーありえないでしょ。あのくそオヤジ。ろくにしゃべったこともない俺をいきなり舞台にあげる? 普通。克哉さんも止めてくれればいいのに、背中押しちゃうしさ」

 ぶつぶついいながらも、その表情が高揚しているのが如実に分かる。まだ感情が高ぶっているのか、声が少し大きかった。

「うん。びっくりしたね」

 隣でくすくすと笑う。あんなサプライズ、会場内の誰一人として想像してなかった。けれど。

「でも、やっぱり太一は凄いね。あんなにすごい歌、はじめて聴いた」

「ん」

「あの歌、太一のための歌なんじゃないかって思った。きっと会場の誰もが思ったよ。何かすごく新しい化け物が生まれる瞬間を見てしまったって。きっと誰もが思ったよ」

「化け物って……」

 言いながらも嬉しそうな顔をしている。

「あの瞬間、大きな化け物が口を開けて会場を飲み込んじゃうんじゃないかって思った。本当に本当に、すごかった」

「うん。ありがと」

「太一はきっと、なれるよ」

「ん?」

「誰にも負けない、最強のロックスターに、さ」

「だといいけどね。でも、まだまだだ。あんなすごいギター、まじでありえねえ。アコギ一つでドラムもベースも表現するっておかしくない? あんな芸当見せられたらさー、ほんと俺なんかまだまだだってへこんじゃうよ」

「うん。そうだね」

「そうだねって……」

 しょぼん、と肩を落とした太一の背中を、さっきみたいにとん、と叩いた。

「大丈夫だよ。太一はきっと、なれるよ。それに、もっと上を目指したいって悔しがってる太一も、ぶつぶつ言いながらも誰よりも世界の中心で輝いてる太一も、あの会場にいた全員切り殺しそうな太一も、全部かっこいいよ。もっとみたいよ。見せてよ」

「克哉さん……」

「太一なら、大丈夫」

「克哉さんって、ほんと俺にべたぼれだよね……」

「なっ……」

 赤くなる耳を見て、太一がそっと耳元へと手を差し出した。

「じゃあ、克哉さんをいっぱいいっぱいめちゃめちゃにしちゃう、俺のことも、見ててよ」

「たいち……」

「克哉さんにしか見せない顔。いーっぱいいーっぱい見せてあげる」

「……うん」

「克哉さんさあ、俺の歌ってるの見て興奮してたでしょう」

「な、何いってるの? してないよそんなこと」

「嘘だぁー。俺見えてたもん。克哉さん、すっごい色っぽい顔してたよ。アノ時みたいに」

「えええええっ」

「あんな表情見せつけられたら、俺もそりゃあ頑張っちゃうよね」

「何いってんの、太一ったら……」

「だからさ。ずーっとずーっと見ててよ。俺のこと」

 

 二人の指先が、優しく絡み合う。太一の節ばった指先が、克哉の手の甲を何度も何度もひっかくようにくすぐった。

 

 

 

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