Happiness

 

 

 

世界が灰色に色を変えてから、もう随分と長い時間が経過した。一人の人間の精神を壊すという罪は大きすぎて、いくら償おうと足掻いても、蟻地獄のようにさらさらと新しい砂を零してゆくだけだ。

 灰色に塗りつぶされた世界。

ずっとそばに居て

自分の罪と向きあい続ける。

 そんな地獄に落ちてなお、世界は巡り続けている。

 

 

 

「今日は俺一日休みなんです」

 目を覚ましているのに、ベッドから一歩も出ようとはしない御堂にそう語りかけながら、体を少し起こしてやる。一度ベッドの脇に座らせて、クッションで体が倒れないように固定した。それから用意した車椅子をベッド脇まで滑らせて、御堂の脇の下に手を入れて腰をぐっと掴むと力を入れて車椅子に座らせる。

 こういう作業にも、慣れた。

 もともと建ってそれほど時間の経っていない高級マンションだから、ある程度バリアフリーな作りにはなっている。だからリフォームを入れなくとも、そのままで御堂を介護しやすい状況を作り上げることは出来た。部屋から部屋へと車椅子で移動をするのにも、さほどの苦労は感じない。

「今日は気温もあがってきたし、いい風が吹いているんですよ」

 そう言いながら、御堂をリビングへと連れていく。御堂は一切の反応を示さない。そんなことは分かっている。分かっているけれど、語りかけずにはいられない。自分と彼がここにいることが当たり前だというように、克哉は一人、言葉を失った人形に話しかける。

「今日は、食事が終わったら、ソファをベランダのほうまで持っていきますから。少し外の風に当ってみましょう。きっと、気持ちがいいと思います」

 そう言いながら、車椅子を押してダイニングまで足を向ける。すでにダイニングテーブルには食事が用意してある。御堂が食べやすいようにと細かく切りわけられたサニーサイドアップ。それと、お粥と、同じく細かく細かく切ってある温野菜のサラダ。自分で作ったドレッシングでゆるめに和えて、喉にひっかからないようにした。

 それと、自分用にパンが一枚トーストされて置いてある。

「いつも似たような食事ですいません」

 そう謝罪しながら、俯いたままの御堂の顎を上げさせる。まずは、粥を少し冷ましてから口元へと運んでやる。気管支に入らないように少量を流し込んでやると、御堂はいつも少しだけ咀嚼してからそれを飲み込む。ごくり。嚥下して、喉が上下する。次の匙を運ぶまでには少し時間を置いたほうがいい。あまりに急かしてしまうと、気管支に詰まったり、戻してしまうことがある。

 そうやって、時間をかけて御堂に食事を与えながら、自分は固めに焼いたトーストに歯を立てた。何を食べても味などしない。御堂のために用意した食事を食べる気にはなれなかった。あれは御堂のためのものだ。御堂のためにならいくらでも時間を割き栄養価を考えて献立を作ったが、それと同じように自分に栄養が必要なのだとはどうしても思えなかった。自分がものを食べるのは御堂を支えるのにエネルギーが必要だから。それだけのこと。それでしかないから、バターを塗っただけのトーストを、御堂の咀嚼と嚥下を待つ間の時間で、がり、と齧る。喉を通りゆく水気のない味に、喉を何か塞がれるような気持ちになる。

 やがて、一時間をかけた食事が終わる。御堂の口元は少し粥が白く残っている。その白さに何かを想像しそうになって、あわててタオルでそれを拭った。御堂は、その間中、薄く開けた瞳のまま、されるがままになっている。

「おいしかったですか?」

 問いかける。答えはないと知っている。瞬きの回数にすら意味を見出しそうになる。目を閉じて、見ないふりをして耐える。

 

 重たいソファを、一人で窓際まで移動させた。床がソファで傷つかないように、タオルを引いてから力を入れて引っ張れば、それは容易く窓際まで滑った。ソファの下に少し埃が積もっていることに気づいて後で掃除をしようと考えながら、ソファの角度をちょうど外が見えるように変える。あまりベランダに近すぎても車椅子が通らないから、ある程度の間隔はあけておく。冬に使っていた膝かけをベッドルームまで取りに行ってから、ダイニングに座ったままだった御堂を、リビングへと車椅子で運ぶ。

 音もなく、ベランダの窓が開いてゆく。優しい風が、部屋の中のよどんだ空気を洗い流してゆく。自分の目の中の世界はあいかわらず灰色に濁っているが、御堂の瞳には空は青く映るだろうか。

 考えながら、御堂を抱えてソファへと座らせてやった。ずいぶん暖かくなったとはいえ、体が冷えるといけないから、念のために膝掛けを足元にかけてやる。

 そんなことをしても、御堂の表情が変わる訳ではない。御堂はただ、虚ろなまま。そこに座らせれば座らせたままで、車椅子に座っていても、ベッドで目を開けたままでいても、何も変わることはない。重たいソファをわざわざ移動させたとしても、それは徒労以外の何でもない。それは賽ノ河原で石を積むのと同じ。無意味という名の、懺悔でしかない。

「御堂さん。髪、伸びましたね」

 自分も隣に座り込んで、後ろ毛を手で弄んだ。整髪料をつけない髪は思いのほか細く、さらさらと指の間を気持ちよく通り抜ける。

「それくらい、長い髪もいいですね」

 髪全体を、そっと撫でてゆく。滑り落ちてゆく手は、彼に触れているのに、何にもひっかかることはなく滑るままに落ちてゆく。それでも何度も何度も手をあげて、御堂の髪を撫でた。

「けれど少し、前髪が伸びてきたかもしれない。そろそろ、切りましょうか」

 前髪に手をやれば、光を遮られた瞳が少し震えて、瞬きをする。

 手を降ろす。

 そうして、克哉もまた窓の外を見上げる。青い空の中に、真白い雲が少しだけ浮かんでいる。それは克哉の瞳には、あいもかわらず灰色と白の集合にしか見えないけれど、今日は5月で晴れているのだから、きっと御堂の瞳にはきちんと青い空が映っているに違いないと思う。それに彼自身が気づいているかどうかは別として。

 さわやかな風が、彼の髪を撫でて通り過ぎてゆく。とても近い所にいるから、少しだけ御堂の匂いがした、気がした。克哉の匂いも御堂に届いているだろうか。

「御堂さん」

 もうすぐ、夏がきますね。

 暑く、なるでしょうね。

 御堂さんは、夏は好きですか?

 俺は、嫌いなんです。

 たわいない会話。もし、彼が目を覚ましていたとしたら。彼はこういう実のない会話に対して、なんと答える人なのだろうか。

 ゆるめに焼いたサニーサイドアップ。彼は、どういう卵料理が好きなのだろうか。

 今の髪の毛の長さを、うっとおしいと思っているのか。それともさほど頓着しないのか。

 何も、答えを知らないままに克哉はいくつも語りかける。

石を、また積み上げる。積み上げて、積み上げて、積み上げてはすべて蹴散らす。期待をして、期待をして、期待をして、それからすべては独りよがりの徒労だと、現実の前に立ちすくむ。

繰り返し。

繰り返し。

積んだ石をすべて壊すのもまた、自分だ。

 

「御堂さん?」

 瞳が、先ほどまでよりさらに細くなった。瞬きの回数も、多い。頭が、揺れている。

「少し、早起きでしたね」

 そんな彼の肩を抱いて、そっと自分の肩へと倒す。促した手に誘われるがままに、御堂の頭が克哉の肩に乗る。そうして、重い瞳が閉じられる。

 やがて静かな部屋に響く、小さな小さな寝息。

 初夏の風が、優しく二人の頬を撫でてゆく。克哉もまた、息を吸って瞳を閉じる。

 鼓動がうるさくて、眠れそうにはない。

 

 

 

 色をなくした世界で。

それでも御堂だけはいつも自分の瞳には光のように真白で。

 そこだけが自分の目指す先なのだというように、自分は何度も何度も昆虫のように愚かにその光を目指す。

 白と黒。

 二つの色だけで構成された世界で、

 螺旋階段を下りるように、繰り返し繰り返し回りながらじわじわと落ちてゆくそんな世界で。 

それでもこうして、てのひらにそっと。

 小さな幸せが舞い降りて、そうしてこの身を焼いてゆくから。

 

 

 

だから地獄の底でなお、

御堂を手放してやることが出来ずに、何度も何度も石を積んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

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