deception



「君の優しさは、嫌ではなかった」
 
御堂の掌が、克哉の頬へと当てられる。この先に告げられる言葉が、自分を否定するものになるだろうことは理解できているのに、克哉はそれを阻止することが出来ないでいる。
 
理由は。御堂の赤く腫れあがった瞳だ。
 
とてもとても優しく、御堂が気持ちよくなるように、愛をたくさんたくさん込めて抱いたはずなのに、翌朝目覚めてみれば、自分の隣に寝る御堂はこんな瞳をして自分を見ていた。この目は知っている。遠い昔、もう一人の「俺」が御堂を甚振っていた時に見せた瞳と、同じだ。
 それに気づいているから、克哉は何も告げることが出来ずに御堂の言葉を聞いている。
「どうしてだろうな? 君があいつを殺した、と考えられなくもないのに、私は君を憎めない」
 そう言って、空いた手が優しく髪を撫でる。「俺」に似せて、ワックスで少し立たせた髪の毛を、御堂の手が撫でて、押さえつけてゆく。どんどんと、以前の自分のように、髪の毛が御堂の手に負けてぺたんと落ちてゆく。
「もし、君のほうと出会い、関係をはじめていたとしても、私と君は恋をした。そんな気さえするほどだ」
 言われた言葉に、克哉の喉が鳴る。その言葉に、涙さえ浮かびそうになる。そうだったらどれだけ良かっただろう。そう叫びたくて、その道を選べなかった自分を殺したくなる。
それでも。
 その言葉を大事な宝物のように、心に何度も何度も繰り返して刷りこんで、自分の血肉へと変えて、優しく優しく包みこんで胸にしまう。自分の思いが御堂へと伝わったことをうれしく思う。
「御堂さん」
 優しく呼びかける。彼が言おうとしている言葉を、促すように、優しく。
「それでも……、私は君を選べない」
 ついに放たれた言葉に、克哉は受け入れるように瞼を閉じる。
「ええ」
 それは、聞きたくなかった言葉。けれど、今の自分は静かにそれを受け入れる。
「不思議、だな。何もかもが君なのに。君の瞳も、髪も、体も、何もかもが君なのに。それでも、もう……
 続きを続けられなくなって、御堂の瞳にまた涙がにじむ。御堂の中に生まれた苦い毒をたくさんはらんだ涙が、瞳を赤く染め上げる。
 御堂は、知ってしまった。
 自分が、以前とは違うことを。
 佐伯克哉でありながら、彼の愛した「佐伯克哉」ではないことを。
 知って、そうしてはっきりと拒絶するのならば。
 こういう形での二人の道は、もう終わりだ。



「御堂さん。ごめんなさい」
……謝るべきは君ではない」
 克哉の謝罪に思うところがあったのだろう。口をぐっと引き結び、こみ上げてくるものに耐えながらも、御堂は強く言った。昨日一日、どれだけその絶望と戦ったのか、顔はげっそりとやつれている。御堂らしく強い言葉だが、その裏に壊れてしまいそうな危うさが隠されていることに、克哉は気づいてしまった。
……あいつは、もう、いない、んだな」
 彼の心の中に浮かぶ虚像。それもまた、自分であるはずなのに、御堂が失ったものを思えば克哉の中にも絶望が浮かぶ。自分には分かる。分かってしまう。自分が以前とは違っていること。自分の中にかっていた、もう一人の自分の気配がそこにはない。
「そうだと、思います」
 「俺」が居た時に、オレが眠っていたようには、今の自分の中にはもう一人の「俺」はいない。もう一度眼鏡をかければ、狂暴で、餓えた野獣のような冷たい男は現れるのかもしれないし、御堂が以前出会った「俺」と言う意味では変わらないのかもしれないが、あれを受け入れるということは、「俺」が消えた意味を、消えてまで御堂を守りたいと思ったその決意を無駄にすることになる。
 だから。
 自分は、もう眼鏡をかけることはしない。
 たとえ、これ以上今までのようには御堂の傍にいれないと分かった今でも。
「オレは、多分もうこれからずっと、オレでいることしかできません」
「ああ。そうだな」
 御堂が頷く。君はそれでいいんだ。そう、瞳が語りかけている。
……私が、もっと強ければよかったんだ」
「御堂さん」
 そうじゃない。そう言おうとするが、御堂はもう聞いてはいない。
「私が弱かったから。私が、あいつが変わることにおびえたりしたから。あいつに、大丈夫だと言ってやれなかったから、守ってやれなかったから。だから、あいつはいなくなったんだろう」
「御堂さん、違う!」
「私が、あいつを追い詰めた……
「違う! そうじゃない!」
「私が……
「あいつが消えたのは、確かに御堂さんのためです。けれどそれは御堂さんのせいじゃない。あいつを策に嵌めた奴がいる。そうして、それに勝てなかった佐伯克哉と言う人間の弱さ。それが、あいつが消えた原因です。あなたの強さとか、弱さとか、そういうことじゃない」
「あいつを、……策に?」
「ええ。多分、『俺』は、あいつのところにいる。そんな気が、するんです」
 それを言ってしまえば。御堂がどうするか、それを分かっているから今まで口にはしなかった。けれど今日、御堂が「もしも」を語ってくれたから。自分はその儚い想像の中で幸せに生きていくことができる。だからもういい。だからもう、自分も御堂も、辛い思いをすることはない。日常だとか、あいつの願いだとか、あの男の思惑だとか、そういうものはすべてもういい。それよりも。目の前であの時のように泣き腫らした瞳をする御堂に耐えられない。このまま御堂が壊れていくのを見守ることなど、耐えられない。
「彼が……いる……
 御堂の瞳が、どこか遠いところを見ている。その瞳の向こうにいるのは、消えてしまったあの馬鹿な男。それが分かるから、克哉は封じ込めたはずの嫉妬が身を焼くのを感じている。けれど、それしか御堂を救えないというならば、たとえそれがないに等しい希望でも、御堂に与えてやりたかった。
「多分。確証は、ありませんが」
「そうか……
 御堂の目の奥に、光がもう一度灯る。その心の中に浮かんだ静かな決意が、その瞳のうちには燃えはじめる。御堂は弱い男ではない。だから、たとえそれが僅かな可能性でも、きっとそれを追うことを選ぶ。それを、掴み取ろうとあがく姿が見える。
「御堂さん。オレに何ができるかは分かりますが、御堂さんが、あいつを取り返しにいくというならば、オレも一緒に行きます。あなたをあいつのところに届けるまで、あなたの傍にずっといます」
……君が?」
「ええ。だから傍にいては、ダメ、ですか?」
「いや。君の力はぜひとも借りたい。きっと君たちにしか分からないこともたくさん、あるんだろう。だから、君さえよければこれからも私の傍に居て。私を手助けしてほしい。あいつが、どこにいるとしても。まだ消えてしまった訳ではないのなら。私はどこへでも行く。私の弱さが彼を追いやったというならば。私が今度は、彼を助ける番だ」
 今度こそ。
 今度こそ、私はあいつを、手放さない。
 たとえ何が、あったとしても。
 御堂の中に生まれた決意が、克哉にも見える。克哉はそれに賛同するように、強く、頷いた。








 本当は、知ってる。
 「俺」は多分、もう消えてしまって、どこにもいない。
 赤い部屋にいるなんて、それは単なる都合のいい嘘。
 けれどその嘘が、貴方をこれからも生かすというならば。
 そうして、これからもオレの傍にいてくれるというならば。
 「オレ」が「俺」じゃないということに気づかれたとしても、
 それでも、オレはあなたの傍に居られる。
 なあ、「俺」。
 お前だってこうするほうがいいと思うだろう?
 自分が消えても。
 それでも、御堂さんがつらい思いをしないならばそれでもいいって、そう思ってオレにあの人を託したんだろう。
 「俺」のふりをすることには失敗してしまったけれど、
 この新しい嘘ならきっと大丈夫。
 今度こそ、あなたはオレの傍から離れようなんて思ったりしない。








 さあ。
 御堂さん。
 「俺」を探しに、どこへ行きましょうか?
 あなたとオレ、二人っきりの道が、またはじまる。
 今度は「俺」のふりなんかしない、オレと御堂さんとの日々が。


 

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