『革命の果実』
夜十一時。仕事を終えて、ネクタイを外しながら眼鏡をかけた佐伯克哉は狭いベッドへと腰を降ろす。今日の仕事は相手方の説得に時間がかかり、帰るのが遅くなった。その分出来は上々だったが、さすがに体は疲労がたまっている。昼御飯のあとは小休憩を入れる余裕もなかったから、夕飯もまだ食べていないが、今は夕飯よりもとりあえずビールでもあおりたかった。
上着もベッドへと脱ぎ捨てると、キッチンまで歩いて行きビールを飲もうと冷蔵庫を開ける。
ビールよりも先に目についたのは、一つの石榴。何故か、無理やり逆さまに置いてある。尖った側が下向きになっているから、傾いて今にも転がり落ちそうだ。冷蔵庫を開けただけでいつものように甘酸っぱい香りが部屋へと広がり、自分を誘う。
(何だ、これは)
見なかったふりをしてビールを取りだそうかと思ったが、明日は休みだし仕事のストレスが溜まった体は発散を求めていた。喉もからからに乾いている。
(まあ、いいか。あの男が用意したものだ、どうせ何らかの形のセックスが待っているだけだろう)
そう思い、割った果実に歯を立てる。歯が種に当たる前に、滴る果実がのどを潤したかと思うと視界は急速に暗くなった。
「こんばんはー」
いつもの笑みを浮かべて、黒いトレンチを着た男が自分の前に跪いている。
気付けば自分はいつものようにCLUB.Rの前に居た。赤いカーテンと、赤い絨毯。跪く、黒ずくめの男。自分は血を帯びたように真っ赤なソファに足を組んで座っている。
何もかもがいつも通りに見えて、その実何かいつもとは様子がおかしい。
「誰もいないのか」
いつもなら、誰かしら捧げられているはずの贄が誰もいない。首を振り辺りを見渡すが、やはりここには自分と男しかいなかった。
「これはこれは。佐伯克哉様。ようこそいらっしゃいました。ですが、只今多少手前共は取りこんでおりまして」
そう言いながらも、何一つ急ごうともせずにMr.Rが床の上で微笑んでいる。
「ふん。なら何故俺を呼んだ。お前の都合などはどうでもいい。何も用意できていないというのなら、帰るまでだ」
克哉はソファから立ち上がり、帰ろうと足を踏み出した。すると、足もとに侍ったままのMr.Rが顔を横に振る。
「今、このお部屋を出られることは危険です。どうか、この部屋に留まり下さいませ」
「なんだと?」
危険。まあ、確かにこの世のものとも思えぬ触手が居たり、合法とは思えない怪しい石榴があったりと、危ないところであるのは確かだが、だからといって自分をわざわざ留め置く必要があるほどの危険がここにあるとは思えなかった。この場所の主ともいうべき、自分に。
「俺には関係ないな」
言って部屋を出ようとするが、Mr.Rがかけた声に克哉はその足を止めることとなる。
「貴方がお食べになったものは、……革命の果実と呼ばれる悪魔の一品」
Mr.Rが差し出したものなど、すべて悪魔の一品以外の何物でもない、と思いながらも克哉は振り返る。
「あれは、世界のヒエラルキーを逆転させる、まさに革命の品」
「革命?」
「ええそうです。大富豪とかで、あるでしょう? 四枚同じ数字を出すと強いカードが逆転するアレ」
Mr.Rの口から俗物的なカードゲームの名が出てきたことに胡散臭さを感じつつも、Mr.Rの言った言葉の意味を考えようとした。
「この世界におけるヒエラルキー。そうですね。分かりやすく言うと、攻め受けの地位が、今この世界では逆転してしまっています」
いけしゃあしゃあと意味の分からないことを言う。
「この部屋の、一歩外に出てしまえば貴方は、この館の『ほぼ』すべての人間にとっての贄。ご自分の身が可愛ければ、この部屋の外に行くことはおやめ下さい。
もちろん、新しい悦びに目覚めたいと言うなれば、話は別ですが」
言われて、克哉は仕方なくソファへと舞い戻った。
「そんなことは御免だ。この果実の効果はいつ切れる」
「さあ、これは革命。革命により地位を失った私には、いつ終わるゲームなのかとんとわかりません」
「その、革命後の世界で今一番の地位にいるのは誰だ」
「さて。どうでしょう。ではばれない様に少しだけ、他の部屋も覗いてみますか……?」
そう言うと、Mr.Rが赤いカーテンの端をそっと持ち上げる。カーテンの向こう側は外ではなく、他の部屋の窓に繋がっていた。
一つ目の部屋
「やめ、ろ……っ」
思いがけない艶のある声に、耳をそばだてる。カーテンの端から見え隠れするのは、スーツ姿の御堂孝典。
見慣れた光景といってしまえばそれまでだが、自分もMr.Rもここに居る以上、相手は自分達以外の誰かな訳で。
真紅のソファに彼を縫いつけているのは、図体のでかい見慣れた男。
「……」
(普段は、御堂のほうがヒエラルキー的には上だったのか)
本御はむしろ定番なので、むしろその事実に驚きを覚えながらも、目の前の茶番を楽しむことにして克哉はソファに深く腰を下ろした。
Mr.Rはカーテンを持ち上げながら、薄い笑みを浮かべて同じく茶番を楽しむ構えのようだ。
御堂は、なんとか逃れようとじたばたと暴れているが、どうやら体をネクタイで拘束されているようでろくに動けないでいるらしい。
「逃げても無駄ですよ御堂さん。どうせあんたは、俺の体力にはかなわない。大人しく抱かれるしかないんですよ」
何かに取りつかれでもしたかのような本多が、黒い笑みを浮かべて御堂の上に圧し掛かっている。
(どこかで聞いたような台詞だな)
克哉はそれを見ながらそう思った。だが、それを口にしているのが本多だと思うと、若干の苛立ちがこみ上げる。
「黙れ。この筋肉バカ。私にこんなことをしてタダですむと……」
体は完全に本多に圧倒されながらも、御堂の減らず口は止まらない。
だが、そんな罵倒にも何も感じていないのか、本多が薄く笑った。
「いい気味だな御堂。散々俺を馬鹿にしていたくせに。俺に今から犯されるんだ。俺のテクニックに溺れるがいい!」
色気も何もない馬鹿でかい声がこちらにまで響いてくる。
「やめ、ろ。あ、ああっ」
明らかに恐怖を浮かべて悲鳴を上げているのは、今ここにいるのが自分のよく知った御堂ではないほうの御堂だからなのか。
それとも、自分に馴らされてなお受け止めきれないほどの巨根だからなのか。
あえてそれは考えないことにした。
「あーーーーーーーー」
なんにせよ、絶叫の響きはいい。
二つ目の部屋
「こちらの部屋は如何でしょうか……」
Mr.Rが、もう片方のカーテンの端をそっと持ち上げる。そこに見えるのはまた別の部屋のようだ。
何故か、カーテンをあげた途端今まで無音だったはずのそこから、喧嘩をするような金切り声が聞こえてきた。
「駄目! この部屋からは絶対に出さないんだから」
「いいえ。退いて下さい。退かないというならば、悪い子猫ちゃんにはお仕置きをしますよ」
遠くに見えるドアの前で、秋紀がドアにへばりついて誰かをとうせんぼしているのが見えた。
道を塞がれているのは、後ろ姿だが声からさっするに片桐なのだろう。顔見知りですらなかったはずの二人が言い合いをする珍しい姿に、克哉は興を惹かれて覗き込んだ。
「そ、そんな。駄目だよ。克哉さんを頂くのは僕が先!」
「いいえ。年長者ですから、僕のほうが先のはずです」
なにやら、えげつない話をしている。さっそく克哉は聞いたことを後悔しはじめていた。
「駄目駄目。眼鏡をかけた克哉さんは受けでも攻めでも僕だけのもの!」
「駄目ですよ。君のような幼い子供が攻めに回るなんて。道徳的によろしくありません。
その点僕でしたら、これでも佐伯君より年上ですから。彼を翻弄してもおかしくない」
「おかしいよ! 攻めに回ってるオジサンなんてどう考えたって想像つかないよ」
「そんなことは、ありませんよ?」
ひゅん、と風を切る音が聞こえる。
ごくり。と秋紀が息を飲む音が聞こえてくるようだった。
こちらに気づいた訳でもないように、ちらりをこちらを向いた片桐の顔は、見たことのない企みに笑んでいる。
片桐が手に持っているのが、黒光りする八又の鞭だということに気づき、克哉は心の底からはじめての恐怖を覚えた。
三つ目の部屋
「このように。革命というものはげに恐ろしきものです……。ゆめゆめ、この部屋をお出になろうなどとは思わないように」
Mr.Rがそう言いながらカーテンを降ろすと、途端に部屋の喧騒はここまでは届かなくなる。
片桐の笑顔に、知らないはずの腹の傷が痛んだような気がした。
「悪趣味な館が、更に悲惨なことになったな」
克哉は、ソファに肘をつき、頭をもたれかけさせてすっかりぐったりとしている。
「せっかくですから、他の部屋も見てみますか」
Mr.Rが笑みを浮かべて、カーテンを真ん中から引きあげた。
今度、見えたのは二人の人間と……触手。
(触手もランキングの中に入っていた訳か)
触手はうごうごと、誰かの体にからみつき、今にも性交をはじめようとしている。
「うわ、わ、わ。ちょっと、ごめん。ごめんなさいってば!」
体を包み込まれて悲鳴をあげているのはどうやら太一だ。
「言うことを聞く必要はないよ。もっと、可愛がってあげて」
触手に思うがままに命令をしているのは、よく見ればもう一人の自分だ。
眼鏡をかけていないはずの顔は、完全に嗜虐の悦びに染まりきっていた。
「まあ、あれはもともと俺と同じものだからな」
鑑賞している克哉は、この二人の関係にはさほど違和感を覚えていないらしい。
(それにしても)
この三者の関係性からいって、普段は太一>触手>克哉(ノーマル)というヒエラルキーが成り立っている訳か。
そんなことを考えながら、服を溶かされて悲鳴をあげる太一の絶叫を快く楽しんだ。
四つ目の部屋
「ここを出てはならない、ということがよくおわかりになったでしょう?」
太一が触手に身も心もさらけ出す様を楽しく見終えた後で、Mr.Rはカーテンをおろし、克哉にそう語りかけた。
「ああ。あんな中に行くのは御免だな」
黒色に染まりきった本多なんていう最悪な生き物も嫌だし、普段は自分の足を舐める飼い猫にかまれるのも御免だし、
片桐に至っては同じ人間とは思えないほどの悪夢だった。
太一のように触手に体を絡め取られるのも趣味ではないし、自分と同じ身体だからと言ってもう一人の克哉に後ろを掘られるのも趣味ではない。
どうやらここから出ないほうがよさそうだ、ということがよく分かった。
「しかしつまらないな。あんなものを見せられて、こっちは欲求不満だというのに」
溜息をつくと、Mr.Rが克哉の足元へとまた跪く。どこから取り出したのか、ワインを克哉の裸足の足元へとかけてゆく。
そうして、その長い髪で足を拭いはじめた。
「そう言えば」
克哉が冒頭のMr.Rの言葉を思い出す。
「今の俺は、この館『ほぼ』すべての人間にとっての贄だと言ったな。では、俺よりも今下の人間。つまりは、日頃俺より上に君臨する人間が居るということか?」
先ほど感じた違和感を問いただそうと、足元の男に問いかける。
「私は、ジョーカー、ですから」
薄く笑って、男は答えをはぐらかす。
「まあ、いい。お前は少なくとも今俺に服従しているのだろう?」
「ええ。我が王。私はいつでも、貴方の最も忠実なる奴隷。この夜が終わるまでの暇つぶしに、御身をお楽しみ下さいませ」
そう言うと、Mr.Rが克哉の足指を恭しく舐めしゃぶり、そうして克哉のスラックスのジッパーへと長い指を絡ませる。
させるがままにしながら、克哉はこの後の愉しみを思い描きほくそ笑んだ。
克哉はその時気付かなかった。
この夜に起こったことは全て、革命の果て。
最下層からの逆転のため革命を起こした張本人が、荒い息をしながら、たるんだ肉を震わせて、鞭を片手に部屋の外で仁王立ちになっているのを。