それは、あの部屋を出てからたったの数週間後の話。
今年一番の冷え込みになった夜の寒さに、吐く息が白く濁った。帰り道のオフィスの街路樹には電飾が付けられて、青色のライトがちかちかと瞬いている。クリスマス本番の夜は、誰しもが誰かとの後の予定について話しながら、楽しそうに歩いていく。そんな中を、克哉は一人でポケットに手をつっこんで歩いていた。
未だ働きはじめたばかりの仕事は、元下請けからの成り上がりということもあってやっかみや蔑みや、得体の知れない好奇心が渦巻いていてまだ仕事をしやすい、と呼べる環境にはなっていない。引き抜きをした専務は「君の活躍に期待をしている。一つ大きな結果を出してくれればすぐにでも部長クラスまで上り詰められるだろう」と言い肩を叩いた。要は、何か成果を出さなければ引き抜きの条件として出してきたはずの高待遇はやれない、と言ったとことか。だが、働きはじめて一週間。周りにいる奴らなど、学歴が高いわりにはたいした仕事も出来ない屑ばかりだということがすぐに分かった。ついこの間まで共に働いてきたMGNの人間、それは御堂が集めてきた有能な人材ばかりだったということだ。あの時感じた仕事への手ごたえは、もっと上に上り詰めないと得られない。それならば、上り詰めるまでだ。あの、高みまで。もう二度と会うことの許されない、彼がいた高みまで。
そのためには、クリスマスも正月も何も関係はない。
そんなことを考えながら、帰り道をやや早足で帰っていく。カフェの前ではクリスマスの衣装を着た若い女の子が大きな声を上げて、ケーキを売っていた。薄暗い色のコートを着たビジネスマンも、今日は家庭の顔をのぞかせて甘い甘い砂糖菓子を買い求める。克哉の目のうちの世界は灰色なのに、頬を赤くした男女は、この後の悦びに目を輝かせて腕を組んで歩いていく。
遠くからは、キリストの誕生を祝う歌が街に鳴り響く。
(主は来ませり)
(主は来ませり)
そう言えば、今日は二十四日だった、とようやく気付いた。
とても、居たかどうかも定かではない聖人の生誕を喜ぶ気分などにはなれない。
(あんただってきっと、)
こんな罪人に祝われたところで、嬉しくはないのだろうし。
今日は風がきつい。ホワイトクリスマス、とはいかなさそうだが、晴れ渡った夜の空はその分寒さが堪える。けれど、克哉はマフラーを首元に当てることもせずに、風にはむかうようにスピードを落とさずにまっすぐに歩いた。駅までの道はさほど遠くは無い。キクチに居たときから何度も通いなれた道ではあったが、後半はいつも、自分の家ではなく、彼の居たあの部屋へと向かっていた。今日もまた、その方向へと自然と足が向かいそうになり、そんな自分に気付いて足を止めた。
地下鉄への乗り口の階段の前に立ちすくむ。この階段を登りこのまま下に降りていけば、そうして電車に乗り、あの部屋へと向かえば、今はないカードキーでドアを開ければ、いまだに御堂が壁に括り付けられているような気がした。自分のことを憎しみながら、それでも自分を待つことしか出来ずに、あそこに座っているような気がした。憎みながらも、身体は自分を求めていて。そうして、ずっと。ずっとあのまま。あの日から繋がれたままで。
(自分が向かわなければ)
(飢えて)
(そうして、)
胸がざわつくが、拳を胸に押しやってその感情に耐える。それは、単なる妄想でしかない。あの日、自分がその腕を解放したこと。カードキーを、部屋に置いてきたこと。終わりにする、と決めたこと。そのすべては夢でも何でもなく、自分はようやくあの手酷い執着から御堂を解き放ってやれたのだと、分かっている。けれど、何度も何度も。もう一度この階段を下る時のあの高揚がデジャヴとなって脳裏に浮かぶ。あの、そわそわするような。待ちきれないような。買ったケーキを家人の待つ家に持ち帰るような、あの感じ。それを、自分はあんなにも酷い企みのうちに感じていた。そうして今も。パブロフの犬のように、この階段を降りたのなら、御堂の元にたどり着くような、そんな妄想に囚われたままで居る。
解放なんて。そんな偉そうなことを言っても。いまだに自分は解放してやれてなどいない。自分のこの、救われない心はまだ。あの続きを繰り返そうとしている。
電車が駅に着いたのか、人波が階段を上がってきた。何人かの視線が、ちらりとこちらを見て怪訝そうに歪む。その表情に気付いてようやく、自分がもう随分と長い間逡巡していたことを知る。いつしか頬は氷のように冷たく、身体も随分と冷え切っていた。それでも、凍りついたまま動けない。人の波はやがて、まばらになり、もう一度途切れた。
身を切る寒さが、このまま自分をここに凍りつかせてしまえばいいのに。あんたの家に行くことも出来ず、家に帰ることも出来ず、このままここに固まってしまえばいいのに。そうして、心の中で滾る思いさえも、冷えてもう戻れないほどに凍えてしまえばいいのに。
そうすれば、もう二度と、あんたを傷つけたりしないですむ、のに。

ポケットに入れた携帯が、ふいに、ぶるりと震える。マナーモードになっている携帯を取り出すと、着信画面には本多の名前があった。やや考えて、それからおっくうに思いながらも電話を取り出した。
「もしもし」
「おお、克哉か。今、課長をはじめとしたキクチの独身メンバーとクリスマスパーティーやってんだけど、来ないか?」
もうすでにかなり出来上がっているのが、後ろから聞こえるがやがやと、本多自身の声のトーンで分かる。克哉は小さくため息をつくと、その電話に答えながら踵を返しようやく地下鉄の前を離れた。
「悪いが、そんな気分じゃない」
「なんだよ。女でも出来たのか?」
「そんなんじゃない。今、仕事が終わったばかりなんだ。明日も仕事だし、今日はもう早く帰って風呂に入って、寝る」
本多に言い訳するように言った言葉で、今後の自分の予定を自分に刷り込む。本多に言ってしまったからにはその通り行動しなくてはならないのだと自分に言い聞かせる。言い聞かせながら歩いていく。歩きながらも、その地下へと続く階段を背中にひりひりと感じていた。走ってそのまま戻りそうになる足を無理強いして、一歩一歩帰り道を歩く。
「なんだよ。本当に最近付き合い悪いな。俺、年末は今年も実家帰るけど。お前どうするんだ?」
「俺は、今年はこっちにいる。周りが休んでいる間に仕事を覚えておきたい」
「え?本気で? MGNってそんなに大変なのか。大変だなー」
「ああ。だから、今日は行けない。そう課長達にも伝えておいてくれ」
「お前さ、年末帰らないなら本当に今日来いよ」
「あ?」
「年末帰らないならお前の誕生会できねーじゃん。だったら今日まとめて祝っちまおうぜ。キリストの誕生日とお前の誕生日と、まとめて」
本多の無邪気な申し出に、自分に取っての年末のもう一つのイベントをようやく思い出す。
「ああ……。別に、誕生日なんてどうでもいい」
「おい、克哉」
「じゃあな」
続きそうになった会話を無理やり終わらせると、そのまま電源ごと落として携帯をポケットに入れた。そのまま、振り切るように家のほうへと足を進めて引き千切るように歩き出す。自分の家へと向かう道は、いまだに御堂の家に帰った回数より少ない。
……誕生日)
ふと、その言葉に、一つの疑問が頭を過ぎる。自分の誕生日などどうでもいい。どうでもいいが。
(御堂の、誕生日は、いつだっただろうか)
そう、思って。それから、そんなことすら知らない自分に気付いて苦笑する。あんなに毎日あの家に行き、あんたを犯し、散々に甚振り、監禁して、さらにはあんたの居た場所から引きずりおろしさえしたのに。
なのにいまだに、あんたの誕生日すら、手に入れられていない。
あんたが、いつ生まれ、どこで育ち、どうやって今まで歩んできたのか。自分は、一体何を奪い去ったのか、自分が粉々に壊してしまったものの重みすら、自分は知らなかった。
(あんたのことが、知りたい)
未だ果てぬ欲望は、今更にあんたを暴こうと騒ぎ立てる。生まれた日を知ること。そんなことは、きっと、あんなことをしなければたやすかったはずだ。時節の挨拶のついでに、些細な会話の一つや二つを挟んで誘導すれば、手に入れられたかもしれない情報。それをすべて飛ばして、あんな卑怯な手を使い無理強いしようとするから、この手には何一つ残らなかった。あんたは最後まで、何一つしてこの手には堕ちなかった。堕ちずに、ああ今頃は、何をしているんだろう。どこかで、クリスマスを祝えているだろうか。いまだにあの部屋に居るのだろうか。まだ、傷は癒えていないだろうか。(癒えていなければいい。永遠に、傷となって残ればいい)心に囁かれる言葉には聞こえないふりをして、何一つ自分の手のうちに残らなかった、遠い人を思う。街に流れるクリスマスソングが、耳に届く。磔にされる運命を辿った聖人は、それでも今日生まれたことをこうして永遠に祝福される。磔にした罪人は、その名を汚し、永劫に罪を償う。本当に、十字を背負う必要があったのは、裏切り者のほうだった。重い十字を背負い、永劫に。永劫にその生誕は、祝われることはない。
それでも裏切り者は、後悔よりも。
焦がれる思いのほうに、胸を焼く。



今日はどこぞの聖人よりも、
あんたのために祈りを捧げよう。
いつ生まれたかすら知らないから、
今日、あんたの生誕を祝おう。

磔にされて、それでもなお強く輝いたあんたのために、
懺悔よりも強く、

歌を、歌おう。











諸人こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり

悪魔のひとやを 打ち砕きて
捕虜を放つと 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり

この世の闇路を 照らし給う
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり

しぼめる心の 花を咲かせ
恵みの露おく 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり

平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ ほめたたえよ
ほめたたえよ ほめ、ほめたたえよ

(賛美歌 第112番)


 



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