克哉が片桐と共に日々を過ごすようになって、数ヶ月が立った。
甘い、といえばかなり甘い日々に、お互いがようやく慣れ、
いつしか共にいることが当たり前に感じるようになった。
克哉が日々傍にいることで、片桐は幸せから来る落ち着きを得た。
仕事も、日々克哉が進め方を教えていくうちに、少しずつはコツを覚えたのか、
優しさや他の人間が円滑に進むようにという気遣いはそのままに、
自分自身の仕事のスピードは格段に上がった。
社でもっとも優秀という評価を得る克哉が肩入れしていることも皆分かっていたから、
少しずつ社内評価も変わっていっていた。
強引に手練手管でがつがつと仕事を進める克哉と、
そんな克哉や八課全体を生来の気遣いで纏め上げる片桐、
いつしかビジネスパートナーとしても二人は認められるようになっていた。

「僕は本当に幸せものです」
今日は二人は克哉の部屋にいた。
熱いお茶を両手で持ちながら、片桐が呟いた。
「今日、あの権藤部長にはじめて褒められました。
MGNの件で、八課をうまくまとめあげていると。
あのプロジェクトで八課は名をあげましたが、
僕自身が褒められたことなどあまりなかったものだから、
お世辞かもしれないけど、本当に嬉しかったんです」
そういうと、はにかんだように克哉に笑いかけた。
「・・・良かったな」
以前は見ていてイライラするほど仕事が遅く要領の悪かった片桐だが、
自分が教えたことには案外はやく吸収していった。
はじめは、自分の恋人が周りからあざけ笑われることにどうしようもなく苛立ってはじめたことだが、いつしか片桐が育っていくことそのものが楽しくなった。
(まるで源氏物語だな)
と自分より一回り以上年上相手に、そんなことをふと思う。
「すべては君のおかげです。
ずっと一人で、誰のお役にも立てずにいた僕の傍にいてくれて、仕事も教えてくれて。
君がいなかったら僕はきっと今も独りぼっちのままでした。
僕が誰かの役に立てるなんて、そんなこと思いもしなかった。あ、これは思い上がりでしょうか」
「そんなことはない。アンタはよくやっている。これは正当な評価だ。
だいたい俺が教えたんだから、物になってもらわねば困る。
アンタは俺の恋人なんです。こんなもので満足せず、もっと上を目指して下さい」
「はい・・・」
恋人、という言葉が嬉しい。
だから、僕には無理です、という言葉はがんばって飲み込む。
克哉がそういう自分を卑下する言葉を嫌うことを知っているから。
自分を卑下することはそのままパートナーである克哉を貶めることになると何度も言われたから。
「・・・本当に僕は幸せものです。本当に」
かみ締めるようにまた、呟いた。
克哉はそんな片桐の頭をそっと撫でると、満足そうに微笑んだ。
「片桐さん。来週、3連休でしょう?どこか旅行にでも行きませんか?」
用意してあった誘いを口にする。
「あ・・・。すいません。日曜と月曜はあいているのですが、土曜日だけちょっと予定が入っているんです。一泊二日でいけるところであればいいですが・・・」
休日の片桐に用事があることなどめったにないから、克哉は少し驚いた。
「ああ、なら別に一泊二日でもいいですが、めずらしいですね
なんの用事ですか?」
「いや・・・ちょっと・・・たいした用事ではないんです。すいません・・・」
本当にすまなそうに身体をちぢこませながら、片桐が答えた。
その表情に、なぜか秘密めいたものを感じて克哉はいぶかしんだ。
片桐がこちらを伺うように、ちらちらと見ている。
だがあえて何も言わず、克哉は話を逸らすことにした。
「・・・まあいいでしょう。では日曜からどこかに行きましょうか。
一泊二日だと、温泉くらいのものですかね」
ほっとしたように片桐がため息をついたのを、克哉は見逃さなかった。



木曜は克哉の仕事が遅くまであったため、結局会わなかった。
金曜日の早朝、まだ暗いうちから片桐は一人いそいそと支度をしていた。
(せっかく佐伯君が誘ってくれたのに、悪いことをしてしまいました・・・)
(でも、今日だけは)
片桐の表情は暗い。
少し、涙ぐみそうになるのを、必死にこらえて黒いハンカチで涙を拭った。
部屋の片隅では、もんてん丸と静御前がかろやかに鳴き声をあげているが、
今日の片桐はその様子に目を細めることもしない。

顔をあげ、家を出ようと扉を開けた。
「どこへいくんです?」
目の前に、私服姿の克哉が、いた。
「佐伯くん・・・」
驚いて、少し後さずった。
「こんな朝はやくから、どこに行くんですか?」
ゆっくりと、もう一度そう言った。
扉のへりに手をかけて、道をふさぐようにして片桐の前に立つ。
克哉より背の低い片桐は、その影に隠れてしまう。
「・・・ちょっと用事があって、そこまで」
そういうと、家の扉を閉めようと後ろを振り返ろうとした。
だが克哉はそれを許さず、乱暴に片桐を抱きしめた。
「じゃあ、俺もお供しますよ」
駄目だ、とは言えず片桐は克哉の手の中でじっとして俯いた。
「でも・・・ご迷惑じゃないですか?」
「迷惑ならこんな朝早くにこんなところまで来ない。
だいたい、そうやって隠されるほうがずっと迷惑だ」
「あ・・・」
はっとして顔をあげる。
「すいません・・・そんなつもりでは・・・」
泣きそうな顔をして、克哉を見上げる。
「じゃあ、行きましょう。案内してください」
そういうと、強引に片桐の左腕を取った。



「あ・・・佐伯くん。次の角を左です・・・」
克哉が先を歩き、後ろからついてくる片桐が方向を指示するというおかしな形で二人は歩いていた。
あまりに克哉がずんずんと無言で歩いていくので、行き先を告げることもできず、片桐は腕をひっぱられるままに着いていった。
「あ、ここの角を左です」
歩いていった先には、墓地。
「・・・やっぱりそうか」
克哉がため息をつきながらそう一人ごちる。
「息子さんの、命日なんですね」
「分かっていましたか・・・」
「ええ。最近、たまにカレンダーを見ながらため息をついていたでしょう。
あんたが休日に用事があるなんてめったにないからな。そうじゃないかとは思っていた」
「さすが佐伯くんです・・・すごい洞察力ですね・・・」
素直に感心したように言う片桐に克哉は内心イライラしつつ、後ろを振り返る。
「何故隠したりしたんです」
「・・・君は以前、俺は家族の代わりなんじゃない、と言っていたでしょう。
僕も、君を家族の代わりにしようと思って君の傍にいるわけじゃないんです。
僕はただ、君が好きだから・・・。
だから、君にこんなことまで迷惑をかけたくなくて・・・だまっていて、すいません」
その返事を聞くと、克哉は何も言わずずかずかと墓地の中を歩いていった。
「お墓、どれですか」
「あ・・・ここです・・・」
指差した先には、質素な墓石。
片桐家之墓、と彫られている。
墓石は磨き上げられていて、丁寧に手入れをされているのが感じられた。
「掃除道具、持ってきてるんでしょう?」
そういうと、片桐は頷いてバッグから掃除道具一式を出した。
「俺、水を汲んで、雑巾洗ってきますから、先に周りを掃除して置いてください」
そういうと、雑巾とバケツを持って克哉が去っていく。
あわてて片桐は持ってきた箒とちりとりで周りを掃除した。

(今年も・・・来たよ)
そう、心の中で声をかける。
(さみしくなかったかい?)
(ごめんね)
(ごめんね)
当時のことが、ふいに思い起こされた。
妻から叫ぶような悲痛な電話があり、病院にたどり着くと、
そこにはすでに遺体となった息子の姿があった。
妻は、すがりついたまま、泣き叫んでいた。
眠るように、そこに『居る』息子の姿に、呆然と立ちすくんだ。
きっと、自分をずっと待っていたのだろう。
寂しかっただろう。
事故にあって、きっと、すごくすごく痛かっただろう。
自分の名前を、呼んだかもしれない。
(ごめんね・・・)
涙が、どんどんと込み上げてくる。
「うっ・・・」
たまらずその場にうずくまった。

「片桐さん」
後ろから、声をかけられた。
涙が頬を伝うまま、後ろを振り返った。
「水、汲んできました。掃除します、少しどいていて下さい」
そういうと、絞った雑巾で、墓石をゆっくりと磨き上げていく。
片桐の涙には、何も言わない。
片桐は、その様子をぼうっと見ながら、止まらない涙をハンカチで押さえていた。
10分ほど、そうしていただろうか。
ようやく掃除を終えた克哉が後ろを振り返る。
「花とロウソク、用意してるんですか?」
「ああ。はい」
そういうと、片桐がリュックから、花と供物とロウソクとライターを取り出した。
「供えてやって下さい」
そういうと、克哉は下へと下がった。
ようやく涙の止まった片桐が、花や供物を並べていく。
二つのロウソクに、火が灯った。
線香を取り出そうとする片桐に、
「俺にも下さい」
と克哉が後ろから言葉をかける。
「お参りしてくれるんですか・・・?」
答えず、火のついた線香を受け取った。
片桐はまた前を向き、線香をそっと置くと、静かに手を合わせた。
そのまま、しばらく、手を合わせたまま、身動きしなかった。

「声をかけてやってください」
しばらくして、片桐が後ろへと下がった。
克哉も続いて、線香を置き、手を合わせる。
(どうぞ、安らかに)
心の中でそう、伝えて、手短に片桐のほうを向き直った。
片桐が、深々と礼をする。
その肩が、何かをこらえるように震えていた。
何も言わず、片桐がロウソクを消し、供物を片付けると、二人は何も言わないまま、
墓地を立ち去った。



帰り道。
「本当に、ありがとうございました。掃除までしてもらって・・・」
片桐が、克哉にそう礼を言った。
「僕は本当に、幸せものです」
おとつい言ったその台詞を、また繰り返す。
しかし、その響きは暗い。
「君のおかげで、僕は本当に幸せになれた。
一人じゃないってそう思えたんです。
けれど、駄目ですね。
ああやって墓の前に立つと、後悔ばかりが胸にわいてくる。
一人で寂しかっただろうに、どうしてもっと早く迎えにいってやれなかったんだろう。
仕事なんかより、彼のことのほうがずっと大切だったのに、
どうして、行って抱きしめてあげなかったんだろう。
僕は結局、死を見取ってあげることすらできなかった。
本当に、駄目な父親です。
僕が、もっとしっかりしていたら、もっと守れたはずなのに。家族も、周りも・・・。
君にも、ずっと迷惑ばかりかけている。
僕ばかりが幸せな思いをして・・・。
本当は君だってMGNでもっと活躍の場を広げたいでしょう?
なのに僕がいるから、僕がすがりついているからキクチにとどまってくれているんでしょう?
僕はそれを分かっていて、君に行けとは言えなかった。
僕に、君を引き止める権利も価値も、ないのに。
僕は本当に・・・駄目な人間です・・・」

片桐の目が、また潤む。



「俺は、アンタの家族の代わりなんかじゃない」
以前言った、その台詞をまたつぶやく。

「俺は、どうがんばろうと、あんたの家族の代わりにはなれない。
あんたの息子にはなれない。
この世の誰だって、あんたの息子の代わりにはならないさ。
たった一人の、かけがえのない息子さんだったんだろう?
あんたのことだから、溺愛してたんだろう?

俺には息子さんを黄泉から取り返してやることもできない。
代わりになってやることもできない。
あんたの涙を、止めてやることも出来ない。
あんたの痛みを、本当の意味でわかってやることも、できないんだろう。

けれど、
そうやって泣く、アンタの隣にいてやることはできる。

だから、
そうやって一人でなんて、泣くな。

俺はあんたの傍に居たいんだ。
あんたのためなんかじゃない。
一人で泣かれるなんて、たまったもんじゃない。
俺が、傍にいたいからいる。それだけだ」

前を向いたまま、克哉はきっぱりとそう言った。



「・・・ありがとう」
こらえきれず、また、泣いた。



「ずっと、涙を流してやれ。
そうやって息子さんのことを忘れずに思うことが、きっと供養になる。
けれど、一人でなんて泣く必要はない。
傍にいてやるし、
いくらでも話、聞いてやる。

だからもっと、俺に頼れ。
ずっと俺の傍にいろ。
アンタは俺のものだ」
克哉の言葉を深く、深く胸に留めて
「ええ・・・」
片桐は静かな笑みを浮かべた。



「あと、MGNの件だが、俺は諦めたわけじゃない。
ただ、行くときは片桐さん、あなたも一緒だ。
権藤に褒められたくらいで喜んでてもらっちゃ俺が困る。
だから、俺の出世を本当に望むのなら、
もっと俺を使っていいからのし上がるんだ。
分かったな」



そういうと片桐は心底驚いた顔をしたあと、
はにかみながら、うなずいた。













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