新年会

 十二月も残りあと数日。クリスマスもすでに終わり、あとは大晦日を迎えるのみだ。
 二人が再会してから早一年。振り返ってみれば、克哉にとってこれほど充実した一年は過去に一度もなかった。二年より前の過去の記憶は、ほとんどすべてが自分のものではないかのように、灰色のフィルターの奥にかすんで消えている。一年前の記憶は今でも極彩色で思い返すことができるが、あまり思い出したい記憶でもなかったから、忙しい日々の最中意識に上らせることは少なかった。
 ましてや最愛の恋人とそんな過去について語り合うことなど、ほとんどしてこなかった。思い出ならば再会してからの一年間で濃密に作り上げてきた。わざわざ二人の共有する記憶の中で最も言葉に言いかえることのできないそれを振りかえりたいとは、克哉は思わない。
「佐伯さん、御堂さん。一月十日の夜ってお暇ですか?」
 今年付き合いのあったクライアントへの挨拶回りに出ようと身支度をしていた時に藤田にそう声をかけられて、克哉と御堂は顔を見合わせた。
「今のところは何も予定は入っていないが……?」
 御堂がスケジュール帳を確認しながらそう答える。年末年始に個人的なイベントが多くある分、年明けの一発目の休みにはさしたる予定は入れていなかった。
「はい。新年会のお誘いなんですけど」
 藤田がいつもの笑顔で答える。
「新年会?」
「うちの新年会は六日じゃなかったか?」
 予定が変わったのかと思い、克哉と御堂が口をそろえてそう問いかける。
「あ、いや。AAのじゃなくて、MGNのなんですけど……」
 二人はもう一度顔を見合わせる。心なしか互いの顔が引きつっているように見えた。
「あ。MGNといってももちろん会社のオフィシャルなものではなくて、仲間内で飲むだけです。そんなに気を使うものではないですよ。ほら御堂さん、毎年恒例でやっていたあれです」
 藤田と御堂にとっては、それは毎年の恒例行事だったらしい。MGNに在籍していた頃いくつか忘年会や新年会の誘いがあった。すべて断っていたから一度も行ったことはないが、あの誘いのうちの一つがそれだったのかもしれない。
「なるほど。……だが、辞めた人間が行っても空気が悪くなるんじゃないのか?」
 御堂が顔色を曇らせる。御堂の辞め方が普通でなかったことは、ある程度MGNの内情を知っている人間なら誰でも知っていることだ。そんな人間が居たら皆気を使うのではないかと、御堂はきっとそう考えている。中には、酒が入ったのをいいことに、内情を根ほり葉ほり聞いてくるような無粋な輩もいるかもしれない。本当の話をしたところで、きっと理解などされないだろう。だからといって御堂の前で、いけしゃあしゃあと嘘をつく気にもなれないし、御堂だってそうに違いない。
「そんなことを言ったら、僕だって辞めた人間ですよ。僕なんか、誘われる時に『お前の任務は佐伯さんと御堂さんを連れてくることだからな』って釘をさされたくらいですから。大丈夫ですよ。本当に、みんなお二人にすごく会いたがっています。今更気を使うメンバーでもないですし、もしお暇なら是非来て下さいよ!」
 藤田は、御堂が渋る理由の深い意味にまでは気づかなかったようだ。ただ言葉どおりに受け取ったのだろう。いつもの明るい笑顔を二人に向けている。
「誰が来るんだ? MGN側は」
 克哉が問いかける。たったの一年とはいえ部長として在籍した会社だ。若手社員の藤田と交流があるようなメンバーであれば、克哉も知っている名前が多いだろうことは推測できた。
「ええとですね……。川出さんでしょう? あとは……」
 計十名。指折り数えながら藤田が口にした名前は、御堂や克哉が共に仕事をしてきた、確かに気を使わないですむメンバーだった。一年で辞めた克哉はともかく、御堂にとっては特に思い入れのある顔ぶれだろう。名前が出るたびに御堂の口元に浮かぶ柔らかい表情は、共に苦楽を共にしてきた仲間に向けられたものだ。
 そんな御堂の様子をちらりと覗って、克哉が声を挟んだ。
「分かった。まだどうなるかわからないが検討しておく」
「佐伯?」
 何も相談せずにそう言いだした克哉を見て、御堂が目を見張る。だが、それには気づかないふりをして克哉はさらに言葉を重ねた。
「藤田。いつまでに返事をすればいい?」
「そうですね、会場の予約もあるので、あさってまでに教えていただけるとありがたいです」
 藤田がスケジュール帳を確認しながら返事をする。御堂が克哉をいぶかしむように見ているが、藤田はそれには気づいていないらしい。
「でも、本当に遠慮なんかしないで、お二人とも是非来てくださいね。お二人を連れていかないで俺一人で行ったらきっと針のむしろですよ。この会はお二人の話を聞くためにセッティングされたようなものなんですから」
 そう言って、藤田が懐かしい面子の近況を話しはじめる。誰誰に彼女ができた。誰それが出世したらしい。そんな他愛もない近況ばかりだが、御堂は優しい目に戻って、そんな藤田に相槌を打っている。克哉は、御堂の顔をちらりと見て、それから目を伏せた。


 車がゆっくりと滑りだす。
 取引先への挨拶回りも一通り終えて、今は会社に戻る途中の車の中だ。運転する御堂は、まっすぐ前を向いている。克哉は頬杖をついたまま、窓の外の街並みを見つめている。先ほどから、車内は沈黙に包まれている。
 年内にすべき仕事はこれですべて完了した。すべての仕事を満足のいく結果で終えた充実感や心地よい疲労もあり、本来ならば気持ちよく会話を交わしてもいいところだったが、二人とも視線を合わすことなくそれぞれの思いの中にいる。
 克哉が、ちらりと御堂を盗み見る。運転中ということもあり、まっすぐ前を向く瞳が、真剣に遠くを見つめていた。
 御堂もまた、克哉と同じで昼の藤田の誘いのことを考えているのだろう。
 御堂がどう考えているのかは、表情だけでは伺い知ることはできない。だから克哉は推測するしかない。

 再会したての頃は、御堂の知り合いの誘いは克哉がすべて断らせていた。それは何のことはない、些細な独占欲からくるものだ。一年もの間離れていて、再会してからもさらに一カ月会う暇がろくになかった。そんな時間を経てようやく分かりあうことができたのだ。自分が棒に振った時間のすべてを埋めたかった。他の人間と会う暇など与えたくなかった。自分と御堂の間に一度開いた空白の時間を埋めるためには、何度身体を重ねても幾度言葉を交わしても足りないように思えた。それに御堂の『旧友』とやらにいい思い出は一つもない。だから多少強引にでも、知り合いの誘いは断らせていた。そういう些細な独占欲を、御堂のほうもけして悪く思っていないことも知っていた。
 だが。桜舞い散る中、克哉が己を見失いそうになっていたあの日。旧友の元へと久しぶりに会いに行った御堂は、『以前の私は、くだらない価値観にしがみついていた』そう、過去の自分を切り捨てるようなことを言った。
 過去よりも自分を選ぼうとする御堂を愛おしいとも思ったが、同時にそこまで御堂を変えた僅かな罪悪感も、身を焼いた。
 あの日から、御堂は克哉が何も言わなくとも、旧友からの誘いを断り続けているようだった。
 克哉に気を使っている、というのも確かだろうが、もしかしたら以前の自分との違いを目の当たりにしたくないという意識も、どこか奥底にはあるのかもしれない。
 克哉が会ったことのある何人かの顔を思い出す。コンサル先で出会った男達も、ワインバーで会った男も、確かに大して出来た人間ではなさそうだった。そんな人間と御堂が会う必要はないと思ったし、今でも思っている。
 だがMGNの仲間は違う。克哉も一年間彼らとともに仕事をしてきたが、彼らの口からは何度も御堂への信頼の言葉が溢れていた。けして克哉を邪険にすることはなかったが、何も告げずに去った前任の部長のことを語るには、あまりに熱い思いを込めた言葉で御堂を語っていた。彼らと御堂の間にどれだけ深い絆があったか、それくらいのことは克哉にだって分かる。
 一度、克哉はそんな彼らの間にあった縁を、己の愚かな欲望で引き裂いた。現状には満足をしているし、それがあの過去なしにはあり得ないことは分かっているから、克哉は過去を否定することはしない。御堂が失ったものの重さ以上の物を、これからの一生をかけて与えるために、この会社を興した。後悔なんかで立ち止まる暇はない。
(それでも、あんたとあいつらの間にまた繋がり合うための機会があるならば、)
 克哉は御堂の横顔に語りかける。
 自分がどうするべきか、なんて、たった一つだ。


 年末の街は渋滞していて、首都高を使っても結局家の近くに戻るのに二時間を要した。数日前まで街をロマンティックに彩っていた電飾はすべていつのまにか外されて、いつもの街並みに戻っている。けれど、その中を行く人々の心は、去りゆく一年に、新しく訪れる一年に、色めきたったままだ。
「何を、さっきからじろじろと見ているんだ」
 気づけば御堂がミラー越しにこちらを睨みつけている。そこには少しの照れもあるような気がする。言われるまで、自分がかなり長い時間御堂の顔をじっと見つめたままであったことに気づいていなかった。
「御堂さんに見とれていたに決まってるじゃないですか」
 だから、そんな軽口を叩いて、笑いかけた。
「君は……」
 眉を顰めるその顔は、けして本気で嫌がってはいない。むしろ気まずい沈黙がほどけたことに、ほっとしているように見える。
「御堂さん」
 なんとか運転に集中しようとして、また前を向いた御堂に声をかける。
「何だ?」
「MGNの新年会のことですが」
「……、ああ」
「俺は行けないが、御堂さん、あんたは楽しんでくるといい」
「何?」
 一瞬、思わず御堂がこちらを向いた。運転中だった、ということをすぐに思い出したのだろう。ハザードをつけて路肩に車をつける。御堂の向こうに見える歩道は、もう遅い時間なこともあって人通りはまばらだった。
「せっかくの仲間とのひとときなんだ。たまには羽を伸ばして、ゆっくりすればいい」
 御堂の顔を覗き込みながらそう言うと、御堂の顔色が険しくなる。
「私は、……もともと断るつもりだった」
「駄目だ」
 間髪いれずに言われて御堂が肩を揺らす。力が入っているのだろう、車は止まっているのに、ハンドルをきつく握りしめたままだ。
「駄目ってどういうことだ。君が決めるな。私は別に行くつもりはな……」
 さらに続けようとする御堂の顎を無理やり掴む。空いたもう片方の手で御堂の手を封じると、御堂の身体を引いてそのまま唇を重ねた。
「ん、ぅ……」
 驚いて身体を離そうとするのを無理やり押さえつけて、唇の間へと舌を差し込む。薄く開いた歯の先へと舌を這わせると、濡れて柔らかい舌を絡め取る。御堂が、身体を震わせて抵抗をやめる。それを確認しながら、気分が乗るままに激しく口内を蹂躙してゆく。瞼を閉じて、欲望の沸くままに舌を絡めてくる御堂を薄目で見て、克哉は満足そうに目を細めた。
「いつも、そうやって、……自分の思い通りにしようとする」
 唇を離した後、御堂は悔しそうにそんなことを言った。
「御堂さんだって、俺にキスされるのは嫌じゃないんでしょう?」
「……嫌いじゃない、が、何もこんな外でしなくても」
「別に、もう夜なんだ。車の中まで覗いたりはしないさ。覗かれてもアクセルを踏んでこの場から立ち去れば、問題ないでしょう?」
 本当は、唇を離してすぐに、御堂の向こう、窓の外にいる人間と目が合った気がしないでもない。車の中で行われている男同士の濡れ場に遭遇してしまったその顔は、泣き笑いのように歪んでいた。けれどそれはあえて御堂には告げない。
「それは、そうかもしれないが……」
 キスにすっかりと惑わされていた御堂が、はっと我に返る。
「話をすり替えるな。私は一人で新年会に行くつもりなどない。どうせ今行ったって、二年のブランクに気まずくなる……だけ、だ」
 言いながら、次第に言葉のテンポが悪くなる。御堂に取っても、あの頃のことはあまり触れたい話でもないのだろう。克哉を責めるようなことを言わないように、言わないように、と言葉を選んでいるのが分かる。
「それより、君が行けばいい。君は、私と違って円満退社だし、まだ退社してから一年しか経っていないだろう? 君が行ったほうが、あいつらも気を使わないですむんじゃないのか」
「俺は、あなたほどMGNのメンバーと長い間一緒にいた訳じゃありませんから。それにあの一年は、……そこまで楽しいものでもなかった。そこまで親しくしていた訳でもない。去年だって、忘年会も新年会にも行っていないんだ。俺はあんたを誘うついででしかないだろう」
 あの頃。世界は灰色だった。らしくもない後悔が、見るものすべての色を覆い隠していた。あの場所にいると、御堂のことを否応なしに毎日考えることになる。御堂の残した功績、御堂が人々の心に残した思い出、そんなものに毎日囲まれて日々を過ごすのは、己の犯した罪と毎日向き合うことだった。
 それでも毎日仕事を机の上に積み上げてくれれば、それに埋没することも、一つ一つに結果を出してゆくこともけして悪くはなかった。そうやって、一年という月日はあっという間に過ぎた。その間に、自分がどんな感情を彼らに残したのかなんて、そういえば考えたこともなかった。
「そうなのか? けれど藤田はお前を慕っているじゃないか。引き抜きに応じたのも、君が誘いをかけたからだろう? ただでさえ立ち上げたばかりの、好きでもない人間のいる会社になんか、普通は行ったりはしない」
「藤田は……、MGNに行く前から付き合いがあるからな。それにあいつがAAについてきたのはあくまであんたが居たからだろう? 俺はあんたをダシに引きぬいただけだ」
「そんなことはない。私と二人でいる時の藤田は、よくMGNにいた頃の君の話をする。私が知らない、あいつだけが知っている君の姿を教えようとしてくれているらしいが、何故だかMGNでの君の業績について話す時の藤田は、いつも誇らしげな表情をしている。きっと、MGNのメンバーだって、同じだろう。君はあの会社に、受け入れられていたんだ。私がいなくなったあとも」
 いなくなったあとも。その言葉を言った後、御堂が後悔したように口を噤む。御堂は克哉を責めるようなことを言わないようにと、気を使いながら話をしている。けれど、気遣っている様子が逆に、御堂の中のしこりを際立たせているようにも感じ取れる。
 御堂の沈黙を受けて、克哉が問いかけた。
「あの場所に、居たかったか?」
 尋ねると、御堂が痛いような表情をした。
「私は今いるこの場所以上に居たい場所なんか、一つもない」
 克哉の瞳をまっすぐに見つめ返して御堂が言う。その言葉にはきっと嘘はない。御堂は今いるこの場所以外を望んだりはしないだろう。当時の御堂が、どう思っていたかはともかくとして。
「なあ、御堂さん。別に、MGNに帰れと言っている訳じゃない。ひさしぶりに会って、飲んで、久しぶりに交流してくればいい。そう言っているだけだ。何なら優秀な部下の一人でも引き抜きしてきてもらえれば、会社としても随分助かるしな。俺のことなど気にせずに、楽しんでくればいい。あんたにとっては、十年近くも共にしてきた、大事な仲間なんだろう? こうやってまた向こうが手を伸ばしてくるのならば、新しい関係を結べばいいと、そう思っただけだ。俺達二人がいなくて困っているようなら、MGNにコンサルを提案することだってできるだろう?」
 これはあくまで経営者としての意見だ、という風に論点をすり替えて、御堂を説得する。その裏に潜む克哉の思考が伝わったのか、御堂は少し柔らかい表情になった。
「私、一人でか?」
 言いながら、克哉の髪に触れる。茶色の髪を指で弄びながら、御堂が克哉を挑発するように笑う。
「なるほどな。確かに優秀な人材との交流は人脈の幅を広げる。会社にとっても利益を生むと言うならば、行かない訳にはいかないな。だが佐伯社長? そう言うなら君も一緒にいくべきではないのか? 相手は私たちベンチャー企業が立ち向かうには大きすぎる大企業だ。社長も同席したほうが、話が早いように思うが」
 言われて克哉も笑った。
「御堂さん。それじゃあ世界制覇の一環として、MGNをのっとってみますか」
 今はまだ、他愛もない戯言にしかないとお互いに分かっている。けれど、いずれそんな夢を追いかけても面白いかもしれない。そう考えながら、克哉も御堂も視線で互いの意思を確認し合う。
「佐伯。何度でも言う。私は今いるこの場所が一番大事で、何よりもかけがえのない場所だ」
 何の嘘も保身もない、愛の告白が気持ちいい。
「そんなことは知っている。あんたは俺のキスが大好きだし、俺に抱かれると何もかも忘れて夢中になって俺を欲しがってる。俺が大好きで、仕方がないんでしょう? そんなことはちゃんと分かっていますよ」
「君は、本当に……」
 苦笑しながらも、御堂は少し嬉しそうだった。
「新年会、二人で行きましょう。あんたがもし気まずくなったとしても、俺が幾らでもフォローしてやる。俺も当時は強引な手を色々使ったからな。もし、そのあたりをつっつかれて俺がいたたまれなくなったら、あんたが助け船を出してくれればいい。あの日々を通ったから、今の俺達がいる。それを振り返るのも、たまには悪くない」
「……そうだな。君があいつらとどういう関係を築いていたか知るいい機会だな。どんな横暴上司だったか、たっぷり愚痴をきかせてもらうとするか」
「それを言うなら御堂さんこそ、相当な傲慢上司だったろうからな。ここぞとばかりに恨みつらみを言われて泣く御堂さんを夜慰めてやるのもパートナーの仕事の一つだろうから、安心しておいてくれ」
 いつもの掛け合いに、互いが笑いあう。それから御堂がハザードを消して、また車を滑らせる。二人の部屋までは、あと少しだ。
「楽しみだな」
 御堂がぽつりと言って、克哉もまた、ああ。と返事を返した。

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system