『蛹』

 

 

 

 どろどろに、ぐずぐずに、私が溶けてゆく。

 私の外に張られた膜一つを残して、私を形成していたすべてが溶解してゆく。

 

 

 

 変われ。変わってしまえと責め立てる声と、手が、私を酷く追い詰めたことは覚えている。

 その声が頭上で鳴り響くたびに、

 その手が身体を弄るたびに

 今にして思えば私の中身は少しずつ少しずつ溶けていった。

 熱く、どろどろに、責め立てる存在の思うがままに形を変えていった。

 

 それでも私は、変わりたくはなかった。

 私は私でありたかった。

 だから必死で抵抗した。

 それは、どろどろの液体物になってしまった今も、なんとなく覚えている。

 

 けれど、その抵抗は結果功をなすことはなく、今私は何者かへの変化をしている最中だ。

 こうなる前の私も、幼い芋虫などではなかったはずだが、気付けば私は薄い被膜だけを残して溶けてしまっていた。

 私が以前どういう形をしていたのか、私はもう思い出す事は出来ない。

 私はただ、静かにゆらゆらと溶解しているだけだ。

 

 本当は、変わりたくなかった。

 変わりたくなど、なかった。

 

 

 

 

 

 今日も私は静かな部屋の中、じっとしている。

 世界はあの日から、とても静かな空間になった。

 耳を澄ましても、聞こえるのは小さな家電の稼働音や、たまに通る隣家の人間の足音や、話し声、それから風が通り抜ける音くらいのものだ。

私は死んでもいないが生きてもいない。蛹だから、ただ時が来るまで動くことすら出来ない。

 冬が過ぎてゆく。日々、どんどん日の陰りが早くなっていく。たまに、外を舞う白い綿毛の群れ。サッシの上にうっすらと積もっては、いつしか水滴になり、また乾く。冬がどんどんと深まってゆく。枯葉はきっと、雪の下で湿り、土へ還ろうとしているのだろう。外へ出ればきっと、耳が冷たく、赤くなるのだろう。けれど私は蛹の中。耳もどろどろに崩れ切ってしまったから、私の内容物の中のどれが以前耳だったのかはもう分からない。何かが聞こえているのはわかるのに、私がいったいどこでその音を聞いているのかが分からない。もしかしたら、私の耳は、昔心臓があった辺りを漂っているのかもしれない。何か膜に覆われたように、すべての音は小さく、耳を澄ましてようやく聞こえるレベルになった。何もすることが出来ないから、私はそれでも暇を持て余して耳を澄ます。心臓の音だけは、いつも絶えなく響いている。これだけが、私が死骸ではなくいつか羽化する蛹なのだという事実を私に伝えてくれる。心臓の音は小さく、頼りなく、だが一定のリズムで時間が固定されたものではなく流れ過ぎてゆくものだと伝えてくれる。

 もしかしたら、目も、耳も。これからどんどんと溶けて、いつかはすべて消えてなくなるのかもしれない。そう思うと下腹あたりから恐怖が湧いてくるけれど、湧いたところで何も、出来ない。

 私はそのまだ軟い被膜の下を漂いながら、ずっと何かを思い出そうとしている。

 

 私には今、何も残っていない。

 私が以前なにものであったのか、何をきっかけにこうして蛹になったのか。そもそも人は蛹になる生きものであっただろうか。私はいったい何になろうとしているのだろうか。

 何もわからないから、疑問だけがいくつも浮かんでは、答えも手掛かりも見つからないままにまた爆ぜて霧散してゆく。

 私は多分あの日生まれた。

 何かに、生まれ変われと強く願われて。

 執拗に、偏執的なまでに、繰り返し繰り返し日々をその言葉だけで埋め尽くされて。

 強く、強く、祈りにも似た力で、変わることを強制されて。

 その望みに負けて私は、かってあったはずの私で居続けることが出来ずに、こうして蛹になった。

 蛹は、ただ季節が巡るのを待つだけだ。

 

 

 

「ただいま帰りました」

 膜の内側の私の瞳は、はっきりとした物体を物体としては認識できない。けれど、扉が閉まる音。少しだけ暗くなる視界。自分に向かい呼びかける声。そういった事象は辛うじて把握できるから、目の前に誰かがいるのだと理解する。それは、一度私の元へと寄ると、私をそっと抱きあげて、私の向く方向を変えてからまた離れていく。離れてゆくが、また遠くにいってしまったわけではないのもわかる。この声をきっかけにして、無音に近かった部屋はほんの少しのざわめきを取り戻すからだ。小さく小さく、人が生きる音が繰り返し聞こえる。それは、静けさに比べれば幾分と心地よい。人が歩く音。何かを置く音。ドアを開ける音がすれば、少し新しい空気が室内へと取りこまれる。鋭利な鋭さを持った空気の質感から、今がもう真冬と呼ばれる時期なのだろうと私は推測する。いまだ私を覆う皮膜は固くはなっておらず、私の中身は些細な温度の変化に敏感に反応した。今の自分が恒温動物なのかどうか、私はよく分かってはいない。部屋はいつも一定の温度に保たれていて、私の周りの温度が変わるのは、湯の中に付けられた時と、こうして空気が入れ替わる時だけで。それらはどちらも些細な変化しか私にもたらさない。

「ごはん、できましたよ」

 蛹だから、食べものなど必要ないというのに、目の前の人はスプーンを運び、食べ物を私の内部へと取り込もうとする。必要ない、と拒むことすらできないから、口元にそれが入り込めば否定することはできない。すべて、柔らかくぐずぐずに溶けているから、私は辛うじてそれを私の内部に取り込み、ぐずぐずに溶けた私の一部にすることに成功する。水が口元を通れば、少し私が薄まるような気がした。粥なのか、なんなのか。ゆるく作られた固形物であれば、それは私と混ざり私の体を少し作り変える。

 目の前の誰かはそうやって、私を、少しずつ少しずつ元あった個体から新たなものへと変えよう、変えようとしているように思える。

 何度も差し出された銀のスプーンの動きが、時々突然に止まる。目の前の誰かが、息を止める。

 手が、震えてかたかたと私の歯にスプーンが当たる。

 すべてがぼやけてふやけているのに、何故かそのスプーンの硬質さだけが痛いほどに私をノックする。

 何かを我慢しているかのような。泣きだしそうなのに、それを自由にできないような。そんな、刹那に揺らぐ人の気配を感じる。

 やがて引き抜かれたスプーンの代わりに与えられるのは、髪をすく温かい指先。

 それはとても心地がいいはずなのに、

(変わってしまえ)

(堕ちて来い)

 また、昔聞いたような声が、耳の中に破裂する。

 その声はとても恐ろしくて、嫌悪を催す。

 

 私は変わってしまいたくなかった。

 だから、蛹はいつまでも羽化することはなく、蛹のままどろどろと、繭の中でとろけたままでいる。

 

 

 

 私の膜を、誰かの手がそっと撫でている。誰か。きっとそれはずっと私の傍にいる誰かだ。

どうせなら、その爪をぐっと立ててこの膜を破り去ってくれればいいのに。

 そうすれば、こんな狭いところに留まっていなくていいのに。川にでも、海にでも流していってくれればいいのに。そうすればきっと、こんな憂鬱な気持ちは消えて、私の粒子は霧散して、私は何者かに変わることなく、ただ拡散して地球に溶けてゆけるのに。

 そんなことを、内側の私は願っている。

 なのに、温かいその掌は、私の上を流れ落ちてゆくだけだ。私の輪郭を、辿っていくだけだ。その掌が私をさすっていくたびに、私は私の外と内側にある越えられない壁を感じて悲しい気持ちになる。世界と私の間の超えることのできない境目がそこにあることを、自覚させられる。

 私はこんなところには居たくない。

 本当はこんなところでじっとしていたくはなかった。

 けれど、新しい何かに生まれ変わりたくもない。

 

 だから、仕方なく私はここにいる。

 

 

 

 それは日が世界の果てに墜落して、深く深く、明かりを消して滑り込んだ闇の中。世界が眠りにつくほんのわずかな時間の歪み。何もかもが音をなくした時間にだけ、小さな小さな声が、夜毎囁くようにたった一言だけ、鼓膜を揺らしてゆく。

 

「御堂さん」

 

 その名前が私の外角に名付けられたものだと、理解してはいる。

 けれど、それは今の私そのものの名前ではない。

 だから、返事はしない。

 

「御堂さん」

 

 声は、泣きそうだった。

 震えて。怯えて。

 泣きたいけれど、泣くことを許されない子供の声。

 

「御堂さん」

 

 嘆きは、何度も繰り返された。

毎夜。繰り返し。繰り返し。

 私が聞いていると知っていて呼んでいるのか。それとも気づいていないのか。

 

「御堂さん」

 

 名前は、ただ繰り返されるだけだ。

 私はもうその名には戻れない。

 だから、いくら声をかけられても困惑することしかできない。

 

「御堂さん」

 

 だって、

 その名前の人間を壊したのは、お前だろう?

 そう、言ってやりたいけれど、「お前」が誰なのかは思い出すことが出来ない。

 

 毎夜毎夜。それは、少しずつ層を重ねてゆく。

 私の上に降り積もるように。少しずつ少しずつ与えられては、私を埋めてゆく。

 降り積もる思いは、重たくて、温かかった。

 

 

 

「御堂さん、」

 

 それは、いったい何度名前を呼びかける夜が続いた後のことだったのか。眠りの中にいるような私には、はっきりとした時間の流れは分からない。

空気を吸い込む音が、何故かその時だけははっきりと聞こえた。

いつもは、その音だけで完結していたその呼びかけに、言葉を続けようとして、空気の塊を飲み込んでいる。

 私を撫でる掌の熱が、私の中へと染み込む。

 その言葉の続きを。

 私はじっと待つ。

 待ちながら、私はずっと、この言葉の先に何かが紡がれることを待っていたのだと気付いた。

 私はずっと、名前を呼ぶことよりも、その先をずっと待ち望んでいた。

 ようやく訪れる、雷雨の前触れのように。

 静かな静かな世界の中で、空気がちりり、と震えたような気がした。

 

「御堂さん、どうか」

 

 それは、祈りのように、真摯に。

 それは、懺悔のように、痛みに満ちて。

 それは、あまりに悲しくて。

 

「どうか、目を、覚ましてください」

 

 声の果てに。はたはたと、私の上に雨が降る。

 水滴が私を濡らしてゆく。

乾いた私の外殻に、涙が染み込んで私の内側までを濡らしてゆく。その温かさが、とろけた私にまで伝わり、染み込み、私と一体となる。

涙はきっと数滴。零れただけだったけれど。

 震えた声も、涙も、私を濡らす。

 その声が、あまりに悲しそうに響くから、私は一度だけ、瞬きをした。

 

 

 

 そんなにも。

 そんなにも、私に変わって欲しかったのだろうか?

 声が遠ざかり、私がまた一人になってからも、私は眠ることも出来ずに考えていた。

 あれは、単なる嫌がらせではなく、

 憎悪でもなく、

 そんな風に泣いてしまうほどに、強い、お前の「願い」だったのだろうか?

 子供じゃあるまいし、人を変えたいだなんて。

 人を自分の思うがままに変えたいだなんて、そんな愚かな言葉を聞く訳にはいかない、そう思っていたはずなのに。

 零れおちる幾ばくかの涙が、私に染み私と混じり、私のかたくなな心を塗り替えてゆこうとする。私の強張った体を溶かしてゆこうとする。

 私の何かが、剥がれおちる。私を覆っていた、硬く、暗く、ひ弱で、それでいて破ることの出来なかった何かが。

 一部分だけ剥げて、薄くそこから光が差し込む。

 

 しかたがないな。

 諦めたように私はつぶやいて、そうして、私をそれまで守っていた被膜を破り捨てて産声を上げた。

 

 

 

 

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