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 車から降りたばかりの身体が吐く息は白い。
 まだ真昼だというのに吹く風は冷たく、身をぐっと引き締める。
 御堂は、前に立って見上げる会社のたたずまいに、珍しく少しの緊張を覚えた。大企業の本社らしく、都内の中心部にあるビルは十八階建てで壮観な面構えをしている。とは言っても、御堂も以前はこの会社に引けを劣らない大企業で働いていた。大企業そのものに対してのプレッシャーはさほどないはずだから、この緊張はやはり今から行う大掛かりな仕事と、それに付随して自分が起こそうとしている行動によるものなのだろう。
 ここ一ヶ月AAが最優先に取り組んできた仕事の総決算となるプレゼンが今から行われる。これが、会社にとって新しい日々の幕開けとなり……そして、自分にとっての一つの終わりとなる。
 この会社と契約が取れれば、AAはよりその知名度を上げるだろう。すでにこれを見越したものか、ビジネス雑誌社からの取材依頼も入っていた。このプロジェクトの成功を持ってすれば、次どこかに就職するにしろ、自分で会社を興すにしろ、今後の進路にかなり有利に進むはずだ。だから、この仕事を請けた。それだけ。それだけだ。
 待ち合わせの時間にはまだかなりあったから、近くにある喫茶店へと入った。少し高級感のある店内は広々としていて落ち着いた雰囲気をかもし出している。コーヒーを頼み、一番奥のテーブルで資料についての最終確認を行った。自分達の作り上げた資料は完璧な出来だと思う。これなら、先方はきっと納得をする。そう確信しながらも、気難しいので有名な創業者をどう説得するかは、プレゼンの能力と、直接会ってみての会話の流れをどう上手く持っていくかにかかっている。御堂は、予見される様々な問いにどう答えるべきかをいくつもいくつもシュミレートを加えていった。
 そうしている間に待ち合わせの時間が近づき、店の扉が開く音に御堂はふと顔を上げた。克哉が入ってきたのが見える。ここ二週間くらいずっと、克哉は一人深夜遅くまで毎日何か仕事をしているようだった。今日のプレゼンのための仕事がメインなのだろうが、どうもそれだけではないようだった。毎日目の下に隈を作るほどの長時間の労働で健康を崩しはしないかと危惧していたが、さすがにプレゼンの前日とあってきちんと睡眠を取ったらしく今日は顔色も良い。
 御堂は、あえて何も言わず克哉を見ていた。御堂を探しているのだろう、広い店内を見回している。途中接客のためにやってきた店員に一言二言話しかけて、それから御堂に気付いたようで、口元がふわりと微笑むのが見えた。その表情に御堂は思わず視線を逸らしてしまう。
「お待たせしました」
 椅子を引いて荷物を置くと、コートを脱ぎながら克哉が話しかけた。
「別にかまわない。待ち合わせの時間はまだ来ていない」
「軽く最終の打ち合わせをしてから、向かいましょうか」
 そう言うと、コートを椅子にかけて克哉が御堂の正面へと座った。バッグの中から御堂のものと同じ資料を取り出す。
「昨日打ち合わせした通りですが、基本的には俺がプレゼンをします。一通り終えてから質疑応答になると思いますからそこは御堂さんも参加をして下さい。特に具体的な数字の話のところは御堂さんからお願いします」
「そうだな。私が調べた箇所については、こちらから説明するのがいいだろう」
「お願いします」
 資料に目を通す克哉の髪が、目にかかりさらさらと日に透けている。色素の薄い茶色の髪が金色に輝いて見えるのを、御堂は自分でも意識しないままに見つめていた。伏せた目の睫が長い。何もかも大胆不敵な男の作りが、案外繊細に出来ていることに気付いて、御堂はそのパーツパーツから目が離せないでいた。
「御堂さん?」
 見つめられていることに気付いた克哉が声をかけた。
「……なんでもない」
 言われて視線を外す。そんな御堂の顔を克哉が逆にじっと見ている。
「……今日で、終わるな」
 克哉が静かな笑みを浮かべたまま、ふと声のトーンをプライベートのものに変えてそう話しかけた。具体的に何かを言われた訳でもないのに御堂はぎくりとする。
「今日のプレゼンがうまくいけば、きっと会社は軌道に乗る。会社の知名度も上がり、オファーも増えるだろう」
 御堂が考えたのと同じことを克哉が口にする。
「ああ。そうだろうな」
 何事もないように答えるが、克哉の目は何かを探るように自分を見ていた。そうして、胸のうちに決意を押し込めるように瞳を閉じる。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
 テーブルには、口をつけなかった生ぬるいコーヒーが置かれたまま。荷物をまとめると二人は喫茶店を出た。



 通された応接室はさすがに広い。重厚感のある革張りのソファが計八つ机を囲むように並べられている。こちらは二名。向かいあうように、代表取締役社長CEO取締役や秘書と思しき人物が席を連ねている。一般人でもビジネス雑誌の一つも読んだことがあれば、その名前を聞いたことがあるくらいの大物が目の前に座っている。対するは三十三歳と二十六歳という、この場にいるのもおかしなほどの若造が二名だ。ここに自分が座っていること自体が一つの奇跡と言ってもいい、そんなことを御堂は冷静に考えていた。御堂はまだMGN長い間在籍していたから前社の社長に連れられてこう言った場にも同席したこともあるが、克哉はまだ二十六歳というビジネスの場においては駆け出しもいいところの年齢でしかない。それなのに目の前の克哉の落ち着きはらった態度は、どう見ても慣れない舞台への緊張などまったくもって感じられなかった。
 まず、自分達の間を取り持ってくれた取締役が、互いの紹介をする。それから、お決まりの名刺交換がひとしきりあった後に着席すると、本題がはじまった。高年齢の重鎮達が相手と分かっていたから、資料はすべて紙ベースで用意した。それも、ただのコピー用紙ではなく、桐の木箱に入れられた和紙。それを御堂が目の前に差し出しただけで、興味をそそられたのかお偉方が身を乗り出した。これは克哉のアイディアだった。年寄りは字の細かいコピー用紙の資料などにはうんざりしている。そうして、こういう大舞台に若造が挑むために一番大切なのはインパクトとはったりだ。以前そう語った本人は、まるでこちらのほうが有利な立場にいるかのように、悠然と構えている。
 資料に対するそれぞれのざわめきが落ち着いたころあいを見計らって、克哉は身を乗り出して、ゆっくりと、平然と、話を切り出した。
「私たちは、黒船襲来に怯える日本人に、それより対抗する戦艦ではなく、空飛ぶ飛行機をプレゼントすることが出来ます。これがその、設計図です」
 口を開いた克哉の大胆不敵な物言いに、その場にいた誰もが驚愕する。横で聞いていた御堂すら、打ち合わせにはなかったその傲慢な物言いに唖然として横を向いた。
 この会社はもう三十年以上ディスカウントスーパーの最大手として幅をきかせてきた。それが、ここ数年で外資からの参入を受け、じわじわとではあるが勢いを失いつつある。国内では負けるところを知らない会社は、案外予想もしない外からの横槍に慌てふためいて、元々持っていたはずの強固な地盤を削られつつある。今の台詞がその状況をたとえているのは判る。だが開口一番のインパクトのあり過ぎる発言に、お偉方は度肝を抜かれていた。顔には出さないが、突然口火を切った若造に対しての不快感を内心は秘めていることだろう。それは以前MGNの取引先として新規参入しようと意気込むベンチャー企業のプレゼンの後、よくお偉方が愚痴っていた風景からも想像が出来る。御堂は平然を装いながらも、何を考えているのか、と克哉を横目で見た。克哉は、御堂の目線に気付いたのか、視線は返さないまま口元で笑んでみせた。安心しろ、というように。
「若造がぶしつけなことを申しまして、大変申し訳ございません。ですが、当方にはその根拠がある。それを今からご説明させて頂きます」
 そう言って、克哉は誰もが唖然とするほど屈託のない笑顔を見せた。
 そこから、克哉の怒涛の攻めがはじまった。まず最初に会社の内情に首を突っ込んでいるのではないかと思うほど会社の深部の淀みをぐさぐさと暴いてみせる。口調もあえてきつく、切り込むように話す。社長をはじめお偉方はもちろんその淀みを誰よりも理解しているからこそ、ぐうの音も出ずに話を聞いている。そして、この席の誰もが未だ気付いていないような問題についても提起する。近い将来考えられる崩壊のシナリオを、克哉は見てきたかのように語る。参入しようとしている大手は少なくとも三社。そのうちの一つはアメリカ最大手企業。裏ではなかなかに汚いやり口を使うというその噂の内容くらいはこの中の誰でも知っているだろう。その手口をも克哉は暴いてみせる。それが、これから奴らによって描かれているこの社が辿る破滅の脚本なのだと。聞く社長達の眉間に寄せられた皺は、ひび割れるほどに深い。克哉の語る話による危機感と、偉そうに語る目の前の若造への不快感のどちらも先方はすでに隠せていない。それはすでに相手が克哉の話を信じ始めている証拠だ。信じていなければ、皮肉げな笑みでも浮かべてひらひらと手を振って追い返す頃合いだろう。だが、先方はそれをしない。信じはじめている証拠だ。
 和紙の半分には、そんな会社への批判とも取れる内容が、データと共にごくごくわかり易く淡々と記載されている。その半分が終わり、克哉は顔を上げた。
「ご安心下さい。先ほども申し上げました通り、私共は黒船などさっさと撃退して、なおかつ余りあるほど御社の業績を上げる施策を持ってまいりました」
 また、克哉は悠然と笑みを浮かべた。それは、二十六歳の邪気のない若者の表情にはどうやっても見えない。百戦錬磨の、業界を知りぬいた信頼たる人物が万全の自信を持って放つ笑顔にしか見えなかった。
 それから、声のトーンをがらりと変えると、次は先ほどまでに挙げた現状に対する対策を一つ一つ挙げていく。この時は、この会社に残るであろう自尊心を最大限にくすぐりながら。けして、終わったゲームではない。まだまだ、自分達が多少手を貸せばいくらでもひっくり返すことの出来る賭けなのだと、笑顔で語ってゆく。御社の数十年にも及ぶ日本での経験は、相手方にはないものです。この国の気質、ニーズは、この国の人間にしか、この国の一線をずっと見てきた人間にしか、わからない。だが、御社は大企業病におかされ、本質を見失っている。だからこそ、誰にも拠らないし、忌憚ない若い目線が必要だ。自信を持った克哉の言葉は、百戦錬磨のはずのお偉方に対してまるで救世主であるかのように扇動する。
 資料の出来は自分でいうのも何だが完璧だ。誰だって、一人黙って目を通しただけで唸るだけの事実は盛り込んである。だがそれを話すのは二十六歳の業界初心者だ、という先方の色眼鏡があるため信用させることは本来とても難しい。だが目の前の『若造』は、誰よりも雄弁に、聞きほれるほどの声のトーンや語り口で、朗々と未来予想図を歌い上げる。
 その自信に溢れる語りに、気付けば御堂自身も目を奪われていた。この目の前の人物は信頼に足る。そう相手方が思いはじめていることが如実に伝わってくる。現に一番若い秘書は目を輝かせて頷いているし、取締役の一人の背は背もたれから離れ身を乗り出していた。こんなに胸を熱くするプレゼンテーションはひさしぶりだ、と思っているのが見える。

 ふと。
 御堂はそんな風景に既視感を覚える。よどみなく、自分の倍以上年上の取締役達に囲まれて、物怖じ一つせず、それどころか内容を誰よりも理解する自分さえ心奪われるほどのプレゼンをしてみせた克哉の姿。気付けば、御堂は相手方の表情を読むことも、資料を目で追うことも忘れ、克哉の姿をじっと見つめていた。端正な横顔に、色素の薄い髪がさらさらと揺れる。先ほど日に透けて金色に輝いた髪は、今は落ち着いた色味を見せている。そうして、こんな大舞台に汗一つかかずに笑顔すら浮かべながら有り得ないような奇跡の舞台を演出してみせる。
 そんな克哉の姿に、いつだったかの風景が重なって見えた。

(ああ、あれは)

 目の前に浮かんだのは、MGNの会議室だった。
 あの日のことを、忘れていた訳ではない。最低の、恥辱に塗れた一日だった。ブラフにまんまと引っかかって大事なプレゼンを横から掠め取られ、その上散々に陵辱された。その記憶はたやすく消すことが出来るものではない。けれど、その酷い記憶の裏で、快感と屈辱に苛まれながら伏せた身体の横で行われたプレゼンの内容は、今と同じく、恐ろしく人を惹きつけるものだった。自分が、数ヶ月かけて作り上げた資料の意図が、自分ではない人間の口を通じて、自分が考えた以上に雄弁に相手へと伝わって行く。克哉は補佐は確かにしていたが、関わったのはプロジェクトの一端に過ぎないはずだ。それなのに、あの日目を通しただけの資料を前に、社の上層部の人間を皆虜にするほどのプレゼンをやってのけた。自分が全力を尽くし作り上げたものが目の前で力となって羽ばたいてくのを御堂は見た。下手をすれば、自分が考えていた以上の力となって。まるで、自分の数ヶ月が克哉の言葉に乗って昇華されていくかのように。
 屈辱にまみれ、言葉を失った自分とは真逆に、その姿は遥か遠く、見上げても太陽にやられて目に痛いほどの高みにいるようで。
 御堂はあの日、その力強さを眩しいとすら思った。

 克哉の壮大な演説を前に、御堂はその時のことを思い出していた。屈辱と恐怖と嫌悪に埋もれて忘れ去ったはずの記憶が、目の前の克哉に感化されて引きずり出される。
 その日抱いた記憶は、それからもしばらくの間くすぶり続けていた。克哉に触れられるだけで、身体が反応してしまうほどに。自分の築き上げた砂上の楼閣は、目の前であざ笑うかのようにどんどんと消え失せて手のひらをすり抜けて落ちていく。自分の積み重ねてきた努力など本物の光の前ではただの虚像に過ぎないというように、一度狂った歯車はあっさりと崩れ落ちていった。上司も部下も、突然に糸の切れてしまった御堂に手の平を返した。なんとかまた繋ぎ合わせようと躍起になるが、一度切れた細い糸は日に溶けて端と端を手繰り寄せることすら出来ず、いくら奔走してもどこか遠くへと引き離されていってしまう。そうやって糸の切れた自分を部屋まで運んだという克哉は、『覇気のないあんたを抱いてもつまらないからな』そういい捨てて、部屋を去った。

(私は……)
 一度思い出してしまえば、溢れでたものはもう止まらない。あの日憧憬したその感情。心を失いかねないほどの酷い陵辱の果てに磨耗して見えなくなっていたものが、今こんなにも強く息を吹き返す。自分の胸のうちに眠っていたそれが、溢れ出して御堂の心を散々に揺さぶる。
(私は、君を……)
 怪我をして目を覚ましてからずっと、いや、克哉に監禁されて日々甚振られて続けていたあの日からずっと否定してきた目の前の男のことを今ここで、こんなにも、こんなにも、

 好きなのだと、気付いた。


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