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 ようやく、右腕以外の怪我はよくなってきて、医者から退院の話が出たのは入院から一ヵ月後のこと。
「記憶は未だ回復していませんが、身体は随分と良くなりました。精神的にも初めの頃に比べるとかなり落ち着いていますし、もう退院しても問題ないように思います。むしろ記憶という意味でいえば、見知らぬ病院にこもっているよりも自分が居た場所や知り合いと触れ合う中で思い出すこのほうが多いと精神科の医者が言っていました。ですから後は外科と精神科のほうへの通院で問題ないと思うのですがいかがですか?」
 右腕のギブスこそまだ取れていなかったが、他は大分と回復をして、もう一人で歩くことも左手で身の回りのことを行うことも慣れてきている。個室とは言え他人の目に触れる公共の場所に一日中いるのは息が詰まる。些細な物音が気になって夜も十分に寝つくことが出来ず、だからといって暗い病室では起きていても何もすることはなく辛い思いをしたことも何度かあった。久しぶりに病院食ではないうまい料理と、ワインが飲みたい。そうして、自分のベッドでゆっくりと休みたい。そんなことを考えて御堂は退院を承諾した。

「退院、おめでとうございます」
 受付で退院の手続きを終えると、見送りに来ていた担当医が最後に握手を求めてきた。
「有り難うございます」
 御堂も、左手でそれに答える。後ろには、「格好いい御堂さん」を見送りにきた看護師が何人も野次馬になっていた。代表して自分の面倒を見てくれていた女性が自分に花束を渡した。それを受け取りしばし立ち話などしてから、お礼を言って立ち去ろうとする御堂に、看護師が声をかけてきた。
「ああ、そういえばお連れの方が御堂さんを迎えにいらっしゃいましたよ」
 そう言って、外を指された。
(まだ昼間なのに、わざわざ藤田が迎えに来てくれたのか)
 頷いて、左手にボストンバッグを転がしながら外へと歩みを進めた。後ろでは、担当医に「散れ散れ」と言われた看護師達がわらわらと持ち場へと戻っていく。担当医も、それを追ってから仕事へと戻っていった。
 正面玄関は、外の光が眩く室内を照らしている。この一ヶ月ずっと病室の中にいた御堂は、その光に目を細めた。
 藤田にも、礼を言わなくては、と頭の中で礼の言葉を組み立てつつ、バッグを引く。
 自動ドアが、すぅと音もなく開く。まばゆい光が、御堂の視界を一瞬覆い、それからゆっくりと風景が線を成していく。
 ごろごろと音を立てるバッグが、ぴたりと止まる。
 花束が、ぱさりと音を立てて地面に落ちた。
 眼前に佐伯克哉の姿を捉えて、御堂の全身が一瞬にして硬直した。

「あああああああ」
「御堂っ」
 外で御堂が出てくるのを待っていた克哉は、御堂が突然身を竦ませたかと思うとバッグを置いたまま走り出したのを見て、あわててその後ろを追った。病院の出口を出て、そのままここがどこだか分かってもいないくせに全力で走っていく。

 突発的に、ただ逃げなくてはという思いに突き動かされてただただがむしゃらに走ったが、イライラするほどに身体は思うようには動いてくれない。退院出来たとは言え、一ヶ月近くも病院で寝たきりに近かった身体がやすやすと動くはずはなく、御堂は直に疲れ果てて走りきれなくなった。見つからないようにとビルの裏路地に逃げ込み、乱れる息のままに壁にもたれかかる。心臓が爆発しそうなくらいに高く鳴り、苦しさに体が二つに折れた。
「ああ……あああ」
 光の下に見た克哉の顔が脳裏に浮かび、恐怖に身が竦む。
(まだ、諦めていなかったのか)
 一ヶ月一度も顔を出さなかったから、油断をしていた。やはり佐伯はまた自分を連れ戻しにきたのだ。その想像に、泣き出しそうなくらいに怯えが走る。自分が一ヶ月近く囚われていた、あの絶望の日々が頭に浮かんで止めようがない。
「嫌だ。いやだ……」
 全身を震わせて、恐怖のあまりに吐き気を催しえずいていると、後ろに、しゃり、と砂利を踏む音が聞こえた。あまりの恐怖に、確かめるため頭を起こすことすら出来ず、身を縮こまらせる。
「御堂さん」
 低い声が聞こえて、御堂の身体がぎゅっと引き攣れた。
 克哉は、そんな御堂の様子を見て、眉をしかめた。完全に恐怖に染まってしまっているのが良く分かる。藤田は、だいぶ回復しているといっていたが、それはあくまで自分が姿を見せなかったことから来るものなのだと思い知らされる。
 一歩足を進めるたびに、びくびくと御堂の身体が震えた。
「来るな……くる……な」
 震える唇の下、嘆願するような声が聞こえてくる。それでも克哉は歩みを進めた。御堂が顔を上げる。怯えた表情の御堂に、できるだけ落ち着いた声で話しかけた。
「俺はただ……あなたを家まで送ろうと思っただけです」
 話しかけられた言葉に、御堂が全神経を集中して聞き耳をたて、それから信じられないというように首をふる。
「あなたの家は、あなたの記憶にある家とは変わっています。あなたはあの後、引越しをしたんです。新しい家の場所、わからないでしょう。だから、家まで送っていきます。それだけです」
 それでも首をふる。
「信じられると思うか」
 克哉の言葉に何度騙され煮え湯を飲まされたことか。
 そんな言葉に騙されてしまったら、きっとまた自分はあの暗い部屋へと連れ戻される。また、拘束されるのかもしれない。また、あの悪夢が再開するのかもしれない。また、縛られて、鞭打たれて。また、何を言葉にしても聞き入れては貰えない、あの絶望の日々に還ってしまう。自分の中ではたった一ヶ月しか経ってないその風景はリアリティーを持って御堂の心を揺さぶる。「あの」男が、自分のために何かをするなどとは到底思えない。
「貴様の言うことなど……信じない」
 憎しみを込めて言った声に、克哉が痛いような顔をした。
 そうしてまた一歩、歩みを進める。目の前に怯える御堂を前に、克哉は小さくため息をつくと、その手を御堂の肩へと置いた。
「嫌だ。嫌だ」
 パニックのままに激しく身を動かし手をふりほどうとするが、克哉は力強く御堂の肩を抱いた。
「御堂……」
 そうして、呟くように言うと、御堂を全身で抱きしめる。
「!」
 全身を覆われる暖かさに、御堂が言葉を失う。克哉は御堂の首筋に顔を埋めてじっとしていた。その抱擁は、無理強いではなく、自分をただ守るかのように、暖かく全身を包む。克哉のフレグランスと煙草の香りが鼻をくすぐる。克哉の力強い腕の隆起が御堂の身体を覆う。その暖かみに、強張っていた身体から力が抜けた。そうして代わりにじわじわと這い上がってくるものに気付き、御堂は顔を歪めた。
「……離して……くれ……」
 泣き出しそうな顔をして、腕の中で御堂が呟いた。はっとして顔をあげると、身体は欠片も抵抗をしないのに、顔は痛みを堪えるかのように歪んでいる。強く抱いた御堂のその身体に起こった変化が、服の上からでも克哉にも分かった。
「離せ……」
 消え入りそうな声で言う。その声に、御堂がどれだけ傷ついているのかが分かり、克哉は身体を離した。御堂は屈辱に塗れた顔で克哉から身を離し、くるりと後ろを向いて黙り込んだ。
 背中へと語りかける。
「御堂さん……。あんたが、俺と二人きりになりたくないというなら、タクシーで行ってもいい。俺は家の前まで送り届けたらタクシーからは出ない。俺が何かしようとしたなら、タクシーの運転手に助けを求めればいい。だから、送っていっては……駄目か」
 それでも沈黙は崩されない。
 屈辱に震え始める身体のまま、背中がこれ以上の会話を拒否していることに気付いて、克哉は後ろへと下がった。
「路地の外にいます。荷物、病院に置いたままですからここまで持ってきます」
 そう言って、克哉が路地を出て歩いていく音を聞いてから、御堂は静かに後ろを振り返った。

「タクシーを呼びました」
 そう言われて、御堂はしぶしぶ路地の奥から出てきた。真昼のビル街には、人通りは少ない。未だ御堂の表情は硬く、屈辱に満ちた表情は変わらない。克哉は御堂の荷物を右手に持ち、タクシーのやや後ろに控えていた。御堂は何も言わず、開いたタクシーへと乗り込む。克哉はそれを見届けて、タクシーの運転手に御堂の荷物をまかせた。運転手が荷物を積み込んでいるのを、克哉は外で見守っている。乗り込むつもりはないらしい。克哉のほうを振り返ると、御堂の行き先を告げているのが見えた。
 御堂は小さくため息をつくと、しかめた表情のまま車から身を乗り出した。
「……乗れ」
 顔も合わせずに、ただ声だけをかけるとまた車へと身を沈める。克哉は驚いたような表情をした後、少し笑みを浮かべて、タクシーの前方座席へと乗り込んだ。
「では、行ってくれ」
 克哉が運転手へと声をかけると、タクシーは静かにスタートした。
 車内は、微妙な沈黙が続いている。前に視線をやるのが嫌で御堂は見慣れない風景を眺めていた。秋とはいえ、まだ日差しは強い。街路の緑は陰りを見せつつあったが、まぶしい日差しにビル街はゆらめいていた。外に広がる風景は、日常そのものなのに、やけに久しぶりに感じられる。……いや、実際自分の記憶の中では随分と久しぶりなのだ。入院していた一ヶ月も、監禁されていたそれまでの期間も、佐伯に陥れられた日からずっとこんな風に風景を見ることなど一度もなかった。
 ちらりと克哉のほうを見やる。まっすぐ背筋を伸ばし前を向いた克哉は、こちらを見ることはない。髪が光を浴びて茶色に透けている。走ったからなのか、うっすらと汗をかいた襟足が濡れている。すっとした首元にシルバーのネックレスを着けているのが見えた。こんな風に佐伯克哉の後姿を見るのははじめてだった。冷静な表情からは、あいかわらず何を考えているのかが読み取れない。今、こうしていることもまた、自分を陥れようとする手管の一つかもしれない。
「この道を左に行って下さい」
 運転手にそう指示する声に、咄嗟に体が震えた。一挙手一挙動に強く反応してしまう癖は、あの日々につけられたものだ。佐伯克哉が動く。それは、自分の身に何かがふりかかるのと同義だった。ただ道案内をするだけの克哉に対して、目が離せない。動悸が早くなる。些細な手の動き、声の質、その中にどんな感情が秘められているのかを探り出そうとしてしまう。走った時にかいたのとは違った汗が、御堂の額を流れた。
 右を指差した克哉が、ふと視界に入った御堂のほうに目を向けた。それだけで頬が引きつる。
「……」
 その反応を目にしたはずの克哉は何事もなかったかのようにまた前を向いた。そうして、目を伏せる。
 また動かなくなった克哉の様子を見て、御堂は緊張から解放され、椅子へと深く座り込んだ。
(やはり駄目だ)
 あの男から受けた苦しみを思えば、こんな狭い場所に共にいるなど耐えられない。たとえ、第三者がいたとしても、安心など出来る筈がない。だいたい、何故御堂の今の家をこんなに詳しく知っているのだろうか。高い金を出して買ったマンションを自分が売り払ってしまっていることにも驚かされたが、それ以上に克哉がこんなにスムーズにタクシーに道案内を出来ることのほうが気になった。気を許してはならない。
「そこで止めて下さい」
 落ち着いた声で克哉が言った。車が音もなく静かに止まる。
「着きましたよ」
 運転手が、御堂のほうを振り返って声をかける。
「有り難うございます」
 軽く会釈をして、克哉の挙動にまた目を向けた。克哉は前を向いたまま動こうとはしない。それを見届けてからようやく身体を起こした。財布がトランクに入っていることに気付き運転手に声をかけようとしたのとほぼ同時に、克哉が「このまま乗って行くから支払いは後で」と運転手に声をかけた。そのことについては何も言わずに車から出る。
 運転手が荷物を出すのをじっと待っていた。その最中も、いつ克哉が車から突然出てくるのではないかと思うと動きが出来ないでいた。運転手は大きなボストンバッグを取り出すと、御堂の左手の傍まで運んでくれた。それを手に取る。
「御堂さん」
 車の中から声をかけられた。体が大げさなほどに揺れる。返事は返さず、視線を斜め下に向けたまま、続く言葉を待った。克哉が車を降りる。それを見て、いつでも走り出せるようにと身体に緊張が走る。
 克哉は御堂の前まで来ると、ポケットから何かを取り出す。
「家の鍵、預かっていたものです」
 そう言って、自分の前へとカードキーを差し出した。
 御堂はそれを見ると、克哉を厳しく睨みつけてそれを奪い取ると、そのまま振りかえらずにマンションの中へと早足で歩いていった。
「落ち着いたら、連絡をくれませんか」
 克哉の声が背中に届くが、御堂は振り返ることはしない。
 御堂の左手がカードキーをかざすと自動ドアが開き、御堂を視界から隠すように閉まってゆく。
 克哉は、その後をじっと、ただ見つめていた。
 足音が、聞こえなくなるまで。



 扉が閉まった途端、御堂は焦ったように、扉の覗き窓を覗いた。それから、そこに誰もいないことを確認して大きく息を吐く。誰もいないことを確認するとずるずると扉にもたれ掛かった。退院してすぐの身体で全力疾走したこともそうだが、ずっと続いた緊張状態が身体を重くした。
 しばらくの間、靴も脱がずに玄関でじっとしていたが、背中にいるはずもない佐伯の気配を感じてしまい、しばらくの間落ち着くことは出来なかった。
(ここが、私の家……か)
 汗ばんだ肌が静けさに冷えてゆくのを感じて、ようやくゆっくりと身体を起こして、部屋へと入る。
 見覚えのない家具の多さに驚いた。以前使っていたものはどれもいい値がしたし、気にいっていたものばかりだったはずなのに、ほとんどが見覚えないものに取って代わられていた。だが、新しい家具のセンスが、逆にここは確かに自分の家なのだろうと感じさせられる。以前、雑誌で見て気に入っていたソファ。以前のものと同じブランドのダイニングテーブル。その手触りを確かめながら、これは自分が選んだものなのだと確証を持った。そして部屋の隅々まで見渡してみればすべてが変わってしまった訳ではなく、昔から使用しているものも、いくらかは手元に残されていることに気づいた。
 しばらく、色々と部屋や引き出しなどをあけて回った。すべてがきちんと整頓されているその部屋は、確かに自分の部屋なのだろう。無意識が覚えているのだろう、見知らぬはずの部屋は自分の身に合い、何も不便を感じることはなかった。部屋を見て周りながら、その影に何か記憶のヒントが隠れてはいないかと目を凝らすが、何も出ては来なかった。
 一通り見て回った後、疲れてソファに座り込んだ。今日一日は、あまりに多くのことがあり過ぎた。退院したと思えば、佐伯がそこにはいて……。そこまで思い返して、御堂の思考が止まる。
『御堂さん』 呼ばれた名前の音の響き。表情。抱きしめた腕。何もかもがまざまざと自分の記憶や肌に甦りはじめる。それらは何故か、御堂がよく知るあの悪魔のような男の持っているものとは思えないほどに、辛そうに見えた。あの時感じた、まるで自分が加害者のような罪悪感。それがじわじわと身を焼いていく。そして、それとは別に浮かび上がってくる、思い出したくもないもう一つの衝動。
(何を馬鹿なことを考えているんだ)
 あの男に罪の意識を覚える必要などない。あいつはあくまで加害者であり、敵でしかない。あの男の腕に体が反応するのはあの男のせいであって、自分のせいではない。あの男はついに私からすべてを奪い遂げた。MGNという遣り甲斐ある仕事。今まであったはずの交友関係。家も失い、家の中にあったものまでが見知らぬものに取って代わられている。二年前までに築き上げたものすべてをあの男が奪い去った。
 あの男がすべて悪い。憎んでも憎んでも憎み切れない。あの男への感情など、それ一つでしかない。
 なのに、何故。
 いくらそう思いこもうとしても、その裏で自分の中にべったりと張り付く感情の意味を御堂はまだ知らない。

 しばらく、ソファに座り込み考え事をしていたが、妄執に囚われそうになりため息をつくと、ボストンバッグの中の荷物を片付けようと思い立った。
 あるべきものをあるべき場所に片付けていく。どれもやはり自分のものだということは、同じ種類のタオルや同じ銘柄の洗面道具などで知れた。ノートパソコンは充電のためコンセントに繋ぐ。洗濯物はまとめて洗濯機に放りこむ。あらかた片付け終えて、最後に出てきたのは、指輪。
 シンプルなプラチナを左手に玩ぶ。裏返してみても何も彫られたりはしていない。けれど、きっと高いものなのだろうということはデザインから想像がついた。それが左手の薬指に嵌っていたという意味。ずっと、それを考えていた。考えてはいたが、答えは出ない。結婚した節もなければ、女性と付き合っていたような形跡もない。だいたい入院していた一ヶ月で見舞いに来たのは藤田一人だ。
 この二年に何があったのか。
 切実にそれを知りたいと思う。
 あれから、自分に何が起こったのか。
 何故、指輪などを嵌めていたのか。
 何故、佐伯克哉と共に働いているのか。
 何故、佐伯はあんな顔をしたのか。

 それを知るため自分は、これから何をすべきなのだろうか。

 御堂は指輪をキャビネットの上に置くと、ノートパソコンを開き、何やら真剣に目を通しはじめた。それから携帯電話を取り出して、どこかへと電話をかけた。




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