怖かった。

存在する気配を感じるだけで、胸の上に圧し掛かられるような酷い圧迫感と呼吸困難に陥るほどに、恐怖が全身を支配した。二の腕の周りを寒気が駆け抜けて、そうしてしびれるほどの恐怖と共に、喉の内側で吐き気がどうしようもなくせり上がる。どれほどえずいたところで吐き出せるのは空気の塊だけだというのに、一度その感情が心を圧迫すれば、何度も込み上げるままにげえげえとえずいた。えずき過ぎて空気が据えなくなり、パニックになりそうして目の端に涙を浮かべてもがく。恐怖から逃れようと本能に従って暴力的な力が身体の内から沸いて来るが、酷く拘束された身体はそれすら叶えることができず、もがけばもがくほど自分の身体を傷つけるのみだった。

ご丁寧に人の手で用意された暗闇は、あまりに長時間与えられすぎてもはやまともに目の前のモノを見ることは出来なくなっていた。闇の向こう側に漏れ出る光すらも、その身に起こっている真実を映し出しそうで怖かった。蟻地獄の底、本当はすでに自分は戻れぬところまで堕ちてしまったのだと、気付いていたのかもしれない。気付いていて、それでも背中に迫るその闇が怖くて逃げ惑い、砂を掴んで必死に上へと上がろうともがいた。どんなにもがいても、爪の間に砂が入り醜く汚れるだけで、さらに砂を自分の足元へと運ぶだけだった。光に照らされるのが怖くて、砂に埋もれて窒息するのが怖くて、得体の知れないものに食われるのが怖くて、疲れに身体が動かなくなったあとも喉が枯れるまで叫び散らした。そうして体力が尽きるまで足掻き続け、最後に喉が枯れてしまえば、もう自分には何も残っていなかった。

 

もう、無理だと

分かっていて。

分かっていたからこそ怖かった。

 

自分が最後まで抵抗を辞めなかったのは

けして己の強さから来るものなどでは無かった。

ただ、怖かった、だけだ。

ただ、それだけ。

それだけなのだと気付かれることすら、怖かった。

 

 

 

 

 

 

『魚眼レンズ』

 

 

 

 

 

きっと、神様だとかそういうものが居た訳ではなくて、人類の元から持っている普段は使われていない脳の一部だとか、潜在能力だとか、そういう物が発動したのだと思う。持てるすべてを使い切って、最後に自分は気を失うことで、自分を覆っていたその感情と自分を一時的に切り離すことに成功した。そうして、目が覚めると、世界はそれまでとはすべてが違って見えた。

何故だろう。ここは確か自分の部屋の一室だったはずだ。自分はそこに、全身を拘束された状態で放置されていた。身体が動かせないのは気を失う前と同じだ。ぎちぎちにロープや拘束具に身体を締め付けられているのだろう。それは先ほどまでとなんら変わりは無い。なのに何故か、目の前は自分の部屋ではなく、無駄に広い草原だった。その風景は明らかに可笑しかったが、拘束された身体ではどうすることも出来ないから、私は眼前に広がるそれをただ呆然と見ているしかなかった。風がふき、さあああ、と草が靡く音がする。土の香りも、草の匂いも、葉のひんやりとした冷たさもそう言えば酷く久しぶりだ。どうやら自分は草原に拘束されたままの身体で放り出されているらしい。不快でもないが、さしたる感情も湧き上っては来なかった。ここが部屋の外であれ、なかであれ、拘束されている事実も、誰もまわりに居ないことにも、変化は無かった。ならば、心を揺らす通りはない。そう思って、ただ呆けたようにその風景を見ていた。視界は低く、見えるのはとても狭い範囲だけで、空が青いのかどうかはよく分からなかった。映る風景で一番遠いのは、遠くに映る山並。世界を覆うようにぐるりと囲むそれが、やけに橙色に染まっているのを見て、今がすでに夕方なのだとようやく判別がついた。だんだんと、身体が冷えていく。もう少ししたら、夜露に身体が濡れてしまうかもしれないと思う。けれど、それも悪くないような気がした。このまま、死んでぐずぐずと土に溶けてしまっても、それでもいいような気がした。

ああ何故か、今日は一度もあの苛まれるような恐怖が身を焼かない。

それは、とてもいいことだ。

そう思いながら、ずっとそこに横たわっていた。

 

かちゃり。

遠くからドアノブが回る音がする。その途端、視界の先にあるのは夕暮れの草原ではなく自分の部屋に戻った。おかしな話だ。そう思いながらも、そのままに目線を動かすこともせずに前を見ていた。床は、手入れを怠っているし、自分が以前に放った体液がきれいに掃除されずにいくつか丸く痕を残してしまっている。今まではそれに対して、酷い屈辱を感じていたけれど、今日は特に感情は荒れなかった。ああ、どんな体液であれ、水分は張力で丸くなるんだな、そんなことをぼんやりと考えていた。足音が、いくつも重なる。自分を呼ぶ声が聞こえる。ああ、今日も帰ってきたのか。その、いくつもの音の連鎖は今まで絶望の鐘の音だったが、今日の自分にはありきたりな予定調和にしか思えず、むしろ「お帰り」とでも声をかけてやりたい気分だった。

(ああ、恐怖は、ついに尽きてしまったらしい)

あんなに毎日毎日叫び散らしてしまえば、たとえ恐怖であっても、いつかは尽きてしまうのか。それとも、恐怖と自分とを繋ぐ何かが切れてしまったのか。自分の中のどこかでは未だ叫び散らしていて、ただ自分の意識がそれに気付けないでいるのか。よく分からない。分からないが、あの感情は、酷く疲れる。だから、楽になったならば良かった。そんなことを考えていたら、もう一度自分を呼ぶ声が聞こえた。ああ、お帰り。心の中でそういう風に告げる。また、日常がはじまる。あの草原は、なんだったんだろう。ぼんやりそう言う風に考えながら、佐伯が肩を掴みゆさぶるのを眺めていた。ああ、可笑しいな。なんでそんなあせったような顔をするんだ。

可笑しいな。

ははは。

笑いたかったが、顔の筋肉も、喉奥も、これっぽっちも動かなかった。

それでも、可笑しな気分は止まらなくて、私はただただ心の中で笑いとばしていた。

 

 

 

いつまでもいつまでも笑っていたが、そのうちに疲れてきた。眠い。佐伯は、今日はおかしいな。私の身体をがくがくと揺さぶっては、名前を何度も何度も呼んでいる。ああ、煩わしい。こんな風に拘束されていたら、答えられる訳もないだろうに。ああ、そう言えばおかしいな。私を拘束する皮具が今日は見えない。ピアノ線か何かで縛められているのか、何も見えないのにぴくりとも身体を動かせない。佐伯は、何度も何度も肩を揺する。何がしたいんだ。自分でやったくせに、何を焦った顔をするんだ。ああ、私はもう眠いんだ。そんな風に揺らされては、眠りにつくことも出来ない。それでもぐらぐらと頭を揺らされ続けた。悲鳴に近いような叫びの後、ようやく佐伯の手が離れる。ようやく訪れた解放が、けれど永遠に続くものではないことくらいもう分かっている。どうせ、いつものようにまた私を嘲るんだろう? また、私を甚振るんだろう? それくらい分かっている。こんなに長い間、毎日毎日繰り返されてきたのだから、もう私は期待をしない。君は、永遠に、私を解放したりはしない。分かっている。もう、分かってしまった。どうせ、同じことの繰り返しだ。ああ、もう分かっている。分かっている。分かっている。

佐伯が、私を押し倒す。身体は、押されるがままに床へと倒れる。その表情は、長くなった前髪が邪魔をしてよく見えないが、どうせいつものように人を蔑むような、嘲笑するような、そうして歪んだ欲望に濡れた顔をしているんだろう。毎日毎日呆れるほどに見たからよく分かる。この後に繰り返されることも。何もかももうテンプレート化されていて、今まであんなに真っ当に毎回毎回反応していたのが可笑しなくらいだ。

案の定、何かを口走りながら、佐伯のモノが後孔を押し入って入ってくる。反応を示さない私にどうやって欲情したというのか。屹立はいつもよりも、温度が低くさえ感じられた。昨日まではあんなにも、気が狂いそうなほどに快楽を生んだそれも、今日は自分に何の感慨も齎さない。名前を何度も呼ぶ声が背中から聞こえる。煩い。嘘だろうとか、そんなことで俺を騙せると思っているんですかとかなんとか、自分を罵倒する声も聞こえる。ほら。やっぱりいつもと同じだ。何一つ変わらない。一ヶ月以上も繰り返されたそれは、滑稽な日常になってしまった。繰り返しはいつしか磨耗する。何も変わらないのであれば、何も恐れることはない。もう、私は。

恐れるという機能を失ってしまったのだから。

何度も何度も打ち付けられる腰の鞭打つような響きだけが部屋に響く。間抜けに私の孔を使いマスターベーションに励む男は、だが最後までそれを達成することはなく、ずるりとそれを抜いた。

(私が何も反応しないことに、萎えたか)

冷静にそんなことを考えた。

ああそれでも、どうせお前はまた新しい手口を考えて、私を苛もうとするのだろう。

永遠に。

萎えたものを仕舞った佐伯は、しばしうな垂れたかと思ったら、今度は何かをわめきちらしながら、またがくがくと私の身体を揺さぶった。それでも何も反応せずに、おもたるい瞳を開けたままでいると、今度は罵倒しながら右頬を殴りつけてきた。がつん。世界に火花が散るが、それでも何の感慨を持つことも出来ずに揺れる視界を魚眼レンズの奥からただじっと見ていた。一度殴っても反応を示さない身体に焦れたか、拳は何度も私の身体へと重く落ちてくる。腹に。顔に。こめかみに。髪を掴み、がつんと壁へと頭を打ちつけられた。それでも。痛みも、私まではたどり着かない。ああそうやってまたお前は私に何かを無理強いするのか。その事実にうんざりとしながらも、すべての感覚と切り離された私の意識はそれをただじっと見つめていた。

(このまま、私のすべては失われたままだろうか)

まるでそれは、誰かの想像したような死にも似た感覚。

すべてから切り離され。無明の闇の中、何をすることも出来ずにただただじっと恨みがましく自分を殺したものを見つめる怨霊。手出し出来ない先にある明るい世界には近づけない、海の底の魚。その冷たい海に、血がぶわぶわと舞いはじめる。魚の瞳は、自分の身体に起こった事態のことまでは、見ることが出来なかった。

それでもいい。……。何度も殴られて酩酊した脳に、ノイズが耳を塞ぎはじめる。……羽目になるくらいなら。それでもいい。永劫に続けられようとも、私が、こうしている限り、恐怖に駆られて……しまうことはない。ない。だから。だから、忘れてしまえばいい。あの、膨れ上がった、衝動のことなどは。自分自身、望んでいないはずのその衝動のこと、など。あの日自分の手に宿ってしまったその衝動のことなど。

ノイズはいつしか大きく佐伯の言葉すらかき消すほどに強くなり、急速に瞳から視界さえもが失われて、そうして私は闇に沈んだ。

 

 

 

 目が覚めて、はじめに感じたのは人肌のぬくもりだった。次に、閉じた瞼の裏にそよぐ午後の陽だまりの明るい光。そうして、自分の頭をきつく抱く腕。しばらくの間、それに身を任せて目をつぶったまま、その柔らかい温かみに身をまかせた。気だるく熱に浮かされた心と身体が、溶けるようにその肌のぬくもりの中に埋もれて緊張を解きほぐしていく。心臓の鼓動が、とく、とくと懐かしい響きを立てているのをじっと耳を当て聞いていた。暖かい肌が、自分の頬に吸い付くように当たっていて心地がいい。何も考えず、ただその優しさに身を沈めた。ずっと、身を任せていたかった。それでも、抱きしめるその腕が少しきつくて、昨日散々に殴られた身体の傷がひりひりと痛む。海の波が満ちては返すように、生ぬるい暖かさは満ちては優しく包み、ひいてはその風に塩に塗れた傷を疼かせた。

もう一度安寧の中に還ることも出来ずに小さくため息をついて目を開く。見上げると、それは小さい頃いつも見上げていた母親の顔だった。赤みを刺した母の頬に、己の小さい掌を当てぐっと握りしめる。そうすると、母親の柔らかい頬がぐっと押されて柔らかく窪む。それが楽しくて、何度も何度も優しく握りしめた。首元に顔を埋めれば、涙が出るほどに安堵した。愛していると思った。愛されていると思った。混じりけ無く、間に何も挟まる不純のない、愛情が身の内に溢れた。

還りたい。

その背に縋って、嫌なことがあったと泣きつきたかった。子供のように、声を上げて泣きたかった。心に満ち過ぎて溢れて凍えた想いを吐き出してしまいたかった。一人で抱えるには重かった。呑まれて、食いつぶされてしまいそうな胸の中の蝮を引きずり出して欲しかった。けれど散々に叫んだ声は枯れてしまったのか、何も吐き出すことは出来なかった。何か伝えようと、口を開くが、喉の奥から漏れるのは小さな小さな呻き。海の上の魚のように口をぱくぱくと開いても言葉にならない声に焦りを感じたが、優しいぬくもりはそれには気付かないように御堂の身体を揺らし続ける。何か叫びたかった。身体の奥に疼く不安を、大人の余力で笑い飛ばして欲しかった。縋りついて泣き叫びたかった。目の奥深く、涙の塊をかきだしてしまいたかった。そんな訳はないでしょう? 大丈夫よ。そう、優しくあやして貰いたかった。それは夢だから、大丈夫なのよ。何も怖いことなど、起きていないのよ。そんなものは、子供が暗闇に怯えて見た只の夢。だから貴方は何もかもを忘れて、優しく眠りなさい。もう一度、お眠りなさい。お眠りなさい。お眠りなさい。

聞こえるはずの無い幻聴が耳に優しく届いて、もう一度瞳を閉じようとしたが、瞼すらも思うようには動かせず、ぎりぎりと全力を込めてようやく一つ、瞬きをした。

 

たった一度でも目を閉じて開けてしまえば、また自分の部屋に戻る。ベッドには、誰も居ない。日差しが明るく伸びて、カーテンの隙間から部屋を明るく照らしていた。随分、分かってきた。これは、ただの夢だ。何度も何度も繰り返して見る夢。私はここから逃げたくて逃げたくて、こうして夢を見る。記憶のどこかに眠る優しい記憶に逃げる。母のぬくもりなんてものが、ここにある訳はないのに。もう、二十年以上その胸に抱かれたことはないのだから。子供のように、泣き叫ぶことなど、出来るはずもない。誰かにあやされたいと願うことも、あっていいはずがない。ここでは、そんな生易しい温もりなど、一度たりとも与えられたりはしなかった。自分がここまで可笑しくなってしまった、ということに、あまりいい気はしなかったが、それでもあのまま正気のままで磨耗していくよりはずっと楽になれた。だから、受け入れようと思った。幻想を。幻惑に溺れる自分を。こんなところに草原がある訳がない。ここに昔の母親が居て私をあやすはずがない。すべては幻想だ。幻想だが、心地がいい。

一度随分と長い間寝ていたのか、布団のぬくもりは自分と同じ温度になっていた。目を開ける。自分の寝ている隣に、空白が口を開いている。人が眠っていたような空洞が、がらんと薄暗い。まるで隣に本当に人がさっきまで居たかのような名残に向かって手を伸ばしてシーツを撫でる。まだ、暖かい。その優しい温もりを何度も撫でた。ある訳もない夢の欠片をそこに感じて、懐かしいような感情が、鼻の奥につんと込み上げる。あれは、私を優しく包んだ。私を肯定して。そうして優しく、包もうとしていた。私もまたその存在に、焦がれるほどの衝動を抱いて。

 

だが今の私は、その感情に名前を付けるすべを、知らない。

 

やがて掛け布団はぺたん、と。御堂の手ごとその空洞を潰した。

 

 

 

時間の経過も、自分の見ているものがどこまで本物なのかも、何も分からない。自分が未だ生きているのかどうかさえ疑わしく思えるほどに、奇妙な状況は続いている。今が昼なのか、夜なのか。一体、四つの季節のうちのどれに当たるのか。暑いのか寒いのか。私が正常に御堂孝典であった日々からいったいどれだけの日数が絶望を積み重ねているのか。何も分からない。ただ一つ分かっているのは、自分が狂っているということだけだ。私は、狂っている。その事実だけは、淡々と純然と認識できた。私は狂っている。何故かその事実は私を安心させた。私は狂っている。感情はすべて千切れてどこかに飛んでいった。だから、私を拘束する男を……する必要はない。壊れてしまったのだからもう、……さなくてもいいのだ。その発想は私を安心させた。

やがて、私の目に映る世界では日が陰り、闇がカーテンの隙間を縫ってその何よりも強いその色の存在感を知らしめる頃、こつこつこつと規則正しい足音が聞こえる。それは、私がこうなる前からも毎日毎日日が翳るともたらされる世界の変革の音。それまでの時間と、それからの時間の線引きをする音。

(ああ、また帰ってきた)

その事実に覚えるのは、諦観とでも言うべき静かな心。国のためにという名目で、実際には家族を守るために生贄として城の下に埋められる人柱のような気持ちで、私はこれから起こることを受け入れる。あんなに嫌だった。あんなにも恐怖した。あんなにも、心が擦り切れるほどに叫び散らした。だからもう、千切れてしまった。だから、後はもう、死刑囚のようにその首に巻かれる紐を受け入れるしかない。

足音は、今日に限って扉の前で一度止まった。だから私は、聞きなれないそのリズムに疑問を持った。いつも佐伯は、ここで立ち止まったりはしない。いつも、扉を開けて出来る限りすぐに私の目の前に現れることで、私が佐伯の出現に心揺らすその表情を逃さないようにしようとしていた。こんな風に気配を感じさせておいて、立ち止まることなど、ない。

一つ目の疑問の後、もう一つ気付いたことがあった。

私は今、ベッドで眠っていないか? 目を凝らして、それが現実なのかどうなのか見極めようとするが、世界は薄暗く翳っていて、今の私にはどちらとも見分けがつかなかった。私の日々が、私の意に反して「私達の日々」になってから、私は一度たりともベッドに横たわることなど出来なかった。眠りは安寧の果てに訪れるのではなく、苦痛と恥辱と涙と震えるほどの快楽に耐え切れなくなってヒューズが切れるように訪れた。横たわることすら出来ずに眠った日も少なくはない。横になれたとしても、目覚めて自分の身体に毛布が掛かっている確率も半々がいいところ。少なくとも自分の下にあるのは、冷たいか、もしくは自分の垂れ流した何かにぬめる床だった。こんな風に自分のベッドに横たわったことなどなかった。ない。だとすれば、今止まった足音も、今私を包むベッドも、母の抱擁のように夢でしかないのだろう。きっと。

そう気付いてしまえば、一度は止まった足音がまたリズムを刻み、扉が開いても何も驚くことは無かった。私は狂っている。だから、いくつも夢を見る。ただ、それだけのこと。ただ、それだけの日々。あいもかわらずぴくりとも動かすことの出来ない身体で、ただ、布団の端を見つめていた。

とん、とん。

ベッドルームの扉がノックされる。あの男が、ノックする、という妄想。ああそれは現実とは違い、なんとも優しさに満ちているのだろう。私の部屋に、無理やり押し入るのではなく、許可を得るようにしてゆっくりとすべりこむ佐伯。それは、夢だ。夢でしかない。横たわる頭の後ろから聞こえてくる音が、自分の見た幻想でしかないのだと思えば、そこには恐怖も何も無かった。私は目を開けたまま、幻想の中の佐伯がどうするのか、じっと待っていた。開けた目は、閉じることすらどうにもままならず開いたままだ。それで、目が干乾びようとも、どうせ私の目に映るのは自分に都合のいい妄想でしかない。

「戻りました」

聞こえる声は、心なしか気落ちしていた。扉を開けながら、そう口にしたままで、足音はもう一度途切れる。息を潜めるように。まるで、何かを祈るように息を吸う僅かな音さえ聞こえてそうだった。舞台袖で緊張する役者のような祈りをそこに感じて、私は可笑しくなった。今度は、何を夢見るつもりなんだろう。私は。私はただ、目を開き、穏やかに規則正しく息をして、夢の続きを待った。

「寝ているんですか?」

頭の上からかけられる声は、酷く優しい。そうして、足先に居た男はベッドの横へとゆっくりと歩みを進める。一歩、一歩。絨毯の上を歩くのに、音が聞こえるなどとは、昔の自分は思っても見なかった。音色の無い、静かな音が、近づいて。そうして、私の視界の中に佐伯の顔が入る。

顔は、私と目があった途端に、まるで泣きそうに歪んだ。

 

私はただ、目の前に映る佐伯を見ていた。瞬きすら億劫で、自分の瞳なのに自分の物ではないようにままならない。だからずっと佐伯の顔を見ていた。歪んだ顔は、少しずつ唇の端を持ち上げて、諦めるかのような笑い顔になった。自分を覗き込む顔の小さな小さな変化を私はずっと見つめていた。私は、こんな表情を浮かべるところなど一度も見たことが無いはずなのに、その表情はやけにリアルで、何故だか私まで悲しい気持ちになった。私は、こういう表情を浮かべる佐伯を想像したりしたのだろうか。私を嘲笑うか罵るか苛立つような顔しか浮かべてこなかった男の、こういう顔を欲したのだろうか。だから今目の前の男は、不恰好に泣きそうなほどに顔を歪めるのか。

「御堂さん。ただいま、帰りました」

やがて佐伯はそう言って、私の髪を指先で撫でた。髪の表面を触れるだけの指は、私の皮膚にまでぬくもりを届けない。

けれど私にはその指が、震えているように思えた。

 

 

 

夢の中で、佐伯は何度も何度も私の髪を撫でた。髪だけを。私は目を見開いているというのに、まるで眠る私を起こさないようにでもするかのように、何度も、何度も。多分、何分もそうしていた のではないかと思う。

やがて、そうするうちに私の腹がくるる、と音を立てた。夢の中でも、腹はどうやら減るらしい。トイレに行きたくなると、眠っていてもトイレに行く夢に見たりすることがあるから、きっと現実の私も空腹なのだろうと思った。佐伯も、その音に気付いたようで、その手がようやく止まる。何かがばれた、とでも言うようにその手がさっと引かれると、佐伯の気配が遠のいてく。

 寂しい。

 何故か、そう思った。置いて行かれることが。寂しいと、はじめて思った。佐伯の足音がどんどんと遠のいて、そうして扉を閉める音が聞こえた。

やがて遠くから、かすかに何かをする物音が聞こえる。まるで、子供の頃宿題をしながら、母親が料理を作る音を聞いていた時の様な気持ち。やがて来る団欒を待ち焦がれるような、くすぐったい気持ち。こんな気持ちは、大人になってからはついぞ感じたことなど無かった。こうして、動くことも出来ない状態でただ一人じっとしていてはじめて、心の中からはいくつもの過去が甦る。それも、社会人になってからのことではなく、それよりもずっともっと前の、大人であれば忘れていて当然な子供の頃のことなど。まるで、死ぬ前の走馬灯のように、心にはありありと懐かしい情景が広がっては消えていく。

やがて。もう一度扉が開かれて。

私の目の前に屈みこんだ佐伯の顔は、先ほどよりは穏やかだった。穏やか、佐伯に対してこの表現を使うのも滑稽な話だった。夢だからこそ、穏やかな佐伯も、辛そうな佐伯も、なんだって見ることが出来る。たとえ現実では私をあざけって甚振っていたとしても、私の目に映るのは、こうして穏やかで私の感情を荒立てない佐伯だ。それは、本当に滑稽だ。滑稽で、悲しい。

「御堂さん。ご飯が、出来ましたよ」

言うと、手がベッドの中へと潜り込んできた。毛布を剥がされて外気に当たった身体が肌寒い。佐伯はそれでも動こうとしない私を見て、困ったような顔をした。その腕に力が入る。引き摺りだそうというのか、腰を抱えて持ち上げようとしている。自分と同じ体格の人間を持ち上げるのは重いだろうに、やがて、私の身体は佐伯を抱きしめるかのように、佐伯に寄りかかった。佐伯は何も言わず、私の身体を運んでいく。以前にも、物を扱うように佐伯に運ばれたことはあった。両手両足を縛られて歩くことすら出来ない私を、ひきずるようにして風呂場やトイレやダイニングへと運んでいった。けれど、その時はこんなにも優しく、私が何にも当たらないように、痛い想いをしないようにと気遣われたりはしなかった。身体をどこへぶつけようとも気にせずにずるずると引き摺っていく。己がしたいように、ただ私の身体を引き摺っていくだけだった。

夢の中の私たちはやがてダイニングテーブルへと着いた。だが、私の身体に両手を塞がれている佐伯は椅子を引くことが出来ず、どうしたものかと立ち止まる。それから、諦めたのか私を再度ソファへと運び、そこへ座らせた。

「こっちに、料理を持ってきますね」

そう言うと、サイドテーブルへと料理を運ぶ。サラダ・ローストビーフ・ロールパン・そして、雑炊。私が何を食べるのか、分からなかったのだろう。ほとんどは出来合いのものを買ってきたようだったが、雑炊だけは暖かく湯気を立てていた。コップには何か茶色いお茶が注がれている。私はそれを、目の端に捕らえたまま、顔が向いている正面を見つめていた。そこにはテレビの画面が黒く、部屋のライトの明かりに反射した部屋や自分を映し出している。顔の表情までは見えなかったが、パジャマを着せられた私はまるで痴呆老人のように身体からすべての力を抜いてぐにゃりとしていた。おかしいな。こんなにも身体が自由にならないというのに、テレビに映る自分には何の拘束も見えない。夢の中なのであれば自由に動けてもいいだろうに、動けない、その事実だけは現実世界と変わらないらしい。

すべての食事を運び終わった佐伯が、ソファの横へと座る。テレビの横に、佐伯が映りこんだ。身体が動かないから、佐伯のほうを向き直ることも出来ずただテレビの画面を見続ける。ぼやけたテレビの画面だというのに、佐伯の顔だけはよく見えた。穏やかな表情の中に、じわじわと滲み出すように怒りが染み出していく。切羽詰った衝動が、顔を覆いつくしていく。

「御堂さん」

声のトーンがまた低くなる。せっかくの夢だというのに、また私を甚振るつもりなのか。その声に滲むのは確かに怒りだ。現実の佐伯の声がこちらにまで投影されているのかもしれない。

「食べないと、死んでしまいますよ」

そう急きたてられてもどうすることも出来ない。怒られようが、殴られようが、どうしようもない。私は壊れてしまったのだから、あとは走馬灯を追いかけながら、朽ち果てることしか出来ない。

(壊したのは、お前のくせに)

心の中で、小さく嫌味を言う。壊したおもちゃを前に、何故動かないなんて、馬鹿なことを言うな。テレビの中の佐伯はずっと苛立ちを滲ませたままの顔で私を見つめている。佐伯まで、私と同じように時を止めてしまったかのように動かない。そうしていると、テレビの中の静止画のように見えて可笑しかった。これでは、放送事故になってしまう。そんなことを思った。

「御堂さん」

また、名前を呼ぶ。

「どう、して」

喉奥から搾り出された声が、震えている。テレビの中の佐伯はまたぼやけてその輪郭をぐずぐずと失っていき、その顔や身体の変化までは分からなかった。

「どうして」

私が、あの頃ずっと叫び散らしていた言葉を佐伯が繰り返す。どうして。どうしてこんなことをする? どうして? 結局答えの得られなかった問いを真似るように佐伯の唇から言葉が漏れる。

「どうして、こんなことになった」

手が、私の身体を掴む。縋りつくような強さで、私の身体を強く抱く。

「どうして、どうして、どうして」

佐伯の顔は胸元に当てられていて、表情は見えなかった。さらりとした柔らかい髪の感触が、私の頬へ触れる。強い力で抱きしめられた身体は、だが夢の中だから痛みをほとんど感じることが出来なかった。ああ、手が震えている。強く力を入れすぎたからか。それとも、何かに怯えているのか。

「……御堂さん」

佐伯の声が震えている。ああ、かわいそうに。お前も怯えているんだな。

訳の分からない、恐怖に。私が身を浸していた、あの、感情に。

「俺は、あんたをこうしたかった、訳じゃない」

自分の犯した罪の重さに、死刑判決を受けて初めて気付いた罪人のように。その声は怯えていた。そうだ。辛いだろう。恐怖に一人怯えるのは。私はずっと辛かった。ずっと怯えていた。未来も、何も見えずに。自分が擦り切れて、そうして右にも左にも動けずお前を受け入れることも拒むことも出来ず、自分が無くなっていくのが、怖かった。

何故こんなシーンを夢に見るのか分かった気がした。

お前に、分かって欲しかったのかもしれないな。

私が、どれほどまでに怯えていたのか。

知られることをあれほど拒んだくせに、本当はどこかで、理解して欲しいと望んだのかもしれないな。

「御堂さん」

小さな声が私を呼ぶ。

「今更になって、分かった」

小さな、小さな掠れるような声。私を呼ぶようで、それでいて自分に言い聞かせるような、声。

「俺はあんたが、好きだ」

やがて訪れた懺悔は、想像以上の強さで私の心へと、響く。

恐怖に怯える佐伯。それでも搾り出すように、欲しかった答えを告げる佐伯。夢だからこそ与えられる最上の瞬間に、私は酔いしれた。たとえそれが夢でも、夢だからこそ、身を委ね、そうして酔いしれよう。

お前に。

 

 

 

 

私の目の前に立ち上がる蜃気楼は、いくつもいくつも私を惑わせては、暗闇の中に消えていく。ある時は、海辺で赤く焼けた夕日を見ていた。別の日には、空を飛ぶ鳥のように、高くから街を見下ろしていた。また別の日には、MGNのビルの前で、自分が首になったことを知っているくせに何事も無かったふりをして出社しようとしていた。大学時代の仲間と飲んでいて、自分だけが何も話さず皆の会話を遠いところから俯瞰していたこともある。自分のマンションのベランダから、飛び降りようとでも言うのかただじっと下を見ていた日もある。山裾にある火葬場で誰かの死体が骨になるのを、ごうごうという骨を焼く音を聞きながら待っていたこともある。夢は私の背筋を這うように、私の全体を後ろからそっと覆っていった。どれも、現実ではないから私は穏やかな気持ちで自分の中の走馬灯を眺めては懐かしいような思いに浸った。

いくつも、いくつもの荒唐無稽な夢路の谷間に、何故だか何度も繰り返して、優しい佐伯の夢を見た。穏やかな表情で私に帰ったことを告げて、そうして私をソファやベッドからダイニングへと連れて行く。そうして、味気なく柔らかい食事を私の口元へと運ぶ。柔らかくぐにゃぐにゃとした食事はそれでも私の口には鉛のように重く思えたが、口内に入れられたそれを何とか咀嚼する。嚥下するたびに、食べたものが喉にこびりつくような錯覚に捕らわれて、あまり食は進まなかった。少し何かがひっかかったような気分になるだけで、嘔吐感が込み上げて息を吸おうと喘いだ。それでも長い時間をかけて佐伯は何度も私の口元へと食べ物を入れる。食べなくては空気を吸うことさえままならないから咀嚼し、嚥下する。それは、私が疲れきって唇を閉ざすまで何度も繰り返されて、それが終わると口元をタオルが拭う。おいしかったですか? 熱くなかったですか? まるで、担当に付きたてのホームヘルパーのように、よそよそしい優しさで私に話しかける声が耳をかすめて行く。佐伯は、死に行く病人への最後の献身のように、恐る恐る、その傷には触れないように、痛みを感じないようにと、何とか私の外側だけに触れようとしているようだった。まるで私の内側に、見たくもない蛆が詰まっているかのように、まるで私の奥に触れると自分がぐずぐずに溶けてしまうように、冷静さを装いながらもその手は私の表面だけを撫でた。食べることが終わると、二日に一度は風呂に入り、身体をタオルで優しく洗われる。中心にだけは触れないように、優しく、じれったいほどに、優しく。そうして、髪をぬるめの温度のドライヤーで乾かし、タオルで身体についた水滴をすべて取り去ると、私に服を着せて、それからベッドへと連れて行き、体中をマッサージする。私の見る白昼夢はどれも良く出来ていて、はじめはたどたどしかった佐伯の献身は、いつしか私の身体に慣れた。

 私はただ、その体躯のぬくもりの熱さを感じていれば良かった。

 夜、ベッドの脇で、祈りの言葉のように何度も何度も繰り返し密やかに消え入るように語られる懺悔の言葉や、愛の告白を子守唄に、私は夢の中の夢へと意識を飛ばした。狂気に守られた世界は優しい。なのに、子守唄のはずの言葉はいつも。私に投げかけられる呪詛のように、私の心に重く、毎日毎日積み重なっていった。いつの日か、窒息するほどの、小さな小さな濡れ紙のように。

 

 

 

怖かった。

それはすでに過去になってしまった、壊れる前の私の記憶の残響。もう、何もかもは幻想の向こうに遠く霞んでしまったけれど、その恐怖のエッジの鋭さだけは、私の頭の片隅に今でもひりひりと爪痕を残し続けている。何が怖かったのか。何にそんなに怯えていたのか。今となってはもう、分からないが、それが毎日どんどんと身を浸しせり上がっていったことだけは覚えている。密室に閉じ込められて、毎日少しずつその水が水位を上げていくように、私は日々絶望の最中足掻いたが、それでも水かさは私を嘲笑うように高くなっていった。

怖かった。

怖かった。

怖かった。

いつだって、喉奥には叫び散らしたいほどの悲鳴が溜まっていた。掻き毟りたいほどに爪は尖り、虫が全身を這うように、皮膚は総毛立った。快楽の果てに、絶望の果てに、いつも最後には意識が途切れる。そのたびに、もう二度と目覚めることはないのではないかと思った。今意識が途絶えたら、それで良識ある人間としての御堂孝典は死んでしまい、佐伯の望むような「何か」に作り変えられてしまうのではないか。栄養も足りずろくな環境でもない中で、死ぬまでここに拘束されるのではないか。そうして、その終わりは今なのではないか。私はいつもぎりぎりの崖の淵で、落とされまいと必死だった。私の手を掴み、笑いながら私を谷底へと突き落とそうとする男の笑顔の前で、私は死に物狂いで足掻いた。死にたくない。死にたくない。死にたくない。殺されたくない。殺されたくない。嫌だ。怖い。パニックに陥った人の心に滑り込む悪魔が、私の背中から私を抱きかかえるように包み込んだ。そうして、私に何かを囁く。耳元で、優しく私にアドバイスをする。

  

「殺される、くらいなら」

 

 

 

 

 

私は、死んだのだろうか。

それとも、逃げることに成功したのだろうか。

それとも、まだ、そこで足掻いている最中なのだろうか。

 

 

 

どれも、違う気がした。

 

 

 

日常は淡々と、変わりなく進んでいく。私はいくつもの夢の狭間に落ちたまま。佐伯は、何度も何度も私の前に現れては私に対して労りを持って介抱した。何度も、何度も繰り返される夢は、変わることなく同じようなものとして私に認識される。佐伯の身体が私を何度も抱く。運ぶために。支えるために。力の入らないぐにゃりとした流動物であるところの私を、力強く支えている。頬に当たるその温かみは、何故だか無性に懐かしく、震えるほどに悲しい。私の時間軸はすでに崩壊していて、それが本当に毎日のことなのか、それとも実は気の遠くなるような時間の果てに繰り返されているのか、それは分からない。分からないが佐伯からそれを与えられるたびに、私の心を何かが揺さぶる。これが、私の求めたものだと。これを私はあの悪夢以上に悲惨な現実の中、ずっと求めていたのだと。これに私は微かな希望を抱き、そうしてその希望のせいで、膠着した日々を終わりにする勇気すら持てぬままにぐずぐずと萎れた。枯れて首を折ってはじめて手に入れた幻想という形の甘い砂糖菓子を、私は身を浸すようにして感受した。萎れてくたびれて土に返ろうとする私に、砂浜に打ち揚げられて過度の酸素に苦しむ私に、暖かいその温もりは、少しずつ少しずつ水を与えて生かそうとしている様だった。もう手遅れだと思っていたのに、その水は少しずつ私を癒し、そうして私を人へと帰そうとする。帰りたくない場所へと私を送り出そうとする。

「ごはんにしましょうか」

夢の中の世界はいつだって夜だ。夕闇が、黒く世界を塗りつぶし一日中蛍光灯に照らされた世界の果てで電気が消えるのを待ち構える頃、この夢は私の世界に降りてくる。ソファに一日中座っていたらしい私の身体は、血がどろりと濁り、痛みを覚えている。それを知っているのか、佐伯はそっと私の体勢を変えようと私の身体を抱いた。

今日も同じようにその温もりは与えられる。心臓の鼓動が私に伝わる。私の心臓が鼓動する音も伝わっているのだろうと思う。いつものようにその温度に満たされるような悲しいような気持ちを抱いていたら、少しだけ生き返った私の心が何かを思い出そうとした。

昔、この温もりをどこかで得た気がする。やつれ、ぼろぼろになって、今の私のようにぐにゃりと実体を失った私を、何故だか佐伯が抱きとめて、そうして今のようにどこかに連れて行ったような気がする。それは私が今繰り返し見ている夢よりも更に遠い記憶。何も言わず。淡々と、私をどこかに連れて行く佐伯の身体は、今のようにとても温かかった。血の気が失せて冷たく凍えた私の身体に、それはぬるま湯のように心地よく纏わりついた。何故だか優しかった。私は意識を失っていたが、身体はその胸板の曲線を、微かな体臭を、きつく抱く二の腕を覚えていた。その優しさが、私を追い詰めた張本人のくせに私を癒し、私のどこかに入り込んだ。だからこうして、何度も何度も夢に見るのだろうと思った。あの優しさに縋りたかった。あの優しさが偶然でも思い込みでもなんでもなくて、佐伯の中に本当はいつもあるものだと信じたかった。だから、私は何度も夢を見る。何度も佐伯を夢に見る。

(欲しかった)

二度とは、与えられなかったもの。

それこそ、夢か幻のようにその記憶は儚く、なのに私をいつまでもお前に縛り付けたもの。

叶わないからこそ、それは私の願望となり、何度も何度も繰り返す。

果て無き祈りのように。

 

 

 

繰り返しは、だが単なる繰り返しではなく、日々薄く積みかねられては少しずつ、私に見える平野を変えた。

数度ではその風景は何も変わらないように見える。けれどそれは、私の気付かないところで日々着実に積み重ねられている。静かに。静かに。そうして気がつけば、取り返しのつかない地平まで私は登らされて、そうして居心地のいい場所へ戻れなくなっていた。

一番はじめに私が私の変化に気付いた時、世界は秋で、そして風の強い昼間だった。かたかたかた、と窓が鳴る音が酷く煩く、ガラスが割れてしまうのではないかと思い気になって、ふと右を向いた。風が強く、窓の外は昼間だったが雲が空を覆い隠していた。雨が降るかもしれない。そう思ってからはじめて、私が『右を向いている』ことに気付いた。夢の世界の私は、一度として自分の意思で首を動かすことなど出来なかったのに。気付けば私の首は右へ曲がっていた。それならば、と手を動かそうとするが、手は動かない。首も、気付いてしまえばもう二度とは動かなかった。仕方なく私は窓の外をずっと見ていた。部屋の中から見る外の世界は、遠く、低く、小さいミニチュアのようだ。近くの公園の木々の色がくすんでいるのが見えて、それで私は今が秋なのだと気付いた。        

ぞわ、ぞわと、背筋を何かが走り私の頭へと辿り着く。

(ここは、夢の中ではない)

安いスプラッタ映画で、うら若き金髪美女の後ろに迫り来る異形の影に第六感が気付く時のように、突然私の背筋に感覚が甦る。がたがたと鳴る窓。昼間なのに暗い空。今にも降り出しそうな雨雲。枯葉を称えた、公園の木々。それを聞く私の耳。血がこり溜まった身体が痛い。開けたままの瞳が干乾びそうに乾いている。五感が突然息を吹き返し、生きているという事実の余りの力強さに、私は打ち揚げられた魚のように圧倒されていた。苦しい。息が、出来ない。空調の小さな小さな音さえも、うわんうわんと鳴り響くように耳に注ぎ込んでくる。今まで、何故このすべてに気付かずに夢の中に溺れていたのか分からないほどに、突然息を吹き返した五感が、部屋の中で溺れた。もがき、なんとか海へと還ろうと身体を跳ねさせる。前を向くことが出来ない首がぎしぎしと痛んだ。身体は雷に打たれ痙攣するように、びくりびくりと跳ねる。喉奥から失ったはずの叫びが競りあがってくる。いつしか全身は、恐ろしいほどの寒気に鳥肌を立て、小刻みに震えだしていた。がたがたがた。窓の外で風が荒れ狂う。私の世界を打ち砕こうと。テーブルの脇に置かれた水槽を揺らす猫のように。がたがたがた。がたがたがた。ガラスが揺れる。通気口からは、ひゅーひゅーと、喘息のような音がする。私の身体も、その音に合わせてがくがくと震える。魚には過ぎた酸素に、息が出来ずに悶え苦しむ。がた、がた、がた。

そうして、風の強さに負けてか、窓ガラスではなく、窓の近くにある通気口の蓋が、音を立てて外れた。

ああ。嫌だ。嫌だ。

(ここは、)

ここは、現実だ。

 

その事実に耐えかねて、私はまた、頭の中のコンセントを引き千切って暗闇へと帰った。

 

 

 

「ただいま、帰りました」

聞きなれた声が耳に届いて、目を開く。重い瞼を開けば、蛍光灯の明かりが目に染みた。目の前に映る風景は、窓と、青々と葉をたたえた観葉植物。身体は、ソファに斜めに垂れ下がっていた。足音だけで、帰ってきたのが佐伯だということが分かる。そうして、ここが夢幻の中だということも分かる。

(帰ってきた、のか)

身体は動かない。声を出すことも出来ない。だが、深い安堵が身を包んでいく。傷に染みる海水ではなく、母の羊水のような温もりが自分を包み込んでいく。

その安堵が、夢の中に戻れたことに対するものなのか、それとも、扉を開けて入ってくる佐伯の足音から来るものなのか、それは分からなかった。

やがて、足音は近づき、私のすぐ側まで来ると佐伯の体が、顔が瞳の中に映りこむ。私の瞳の焦点はいつも何か対象へ向けて像を結ぶことができないから、その姿もぼんやりと滲んでいるが明るい髪の色から佐伯だということが分かる。

 「椅子から、ずり落ちてしまいましたね。すいません。座らせ方が悪かったでしょうか。ずっとこんな風にしていたら、きつかったでしょう」

 佐伯はそう言い、私の身体を強く抱いて、ソファへと横たえた。おかしな格好に曲がっていた身体が痛む。佐伯は、私の身体に異常なところがないか、身体のいたるところをチェックしている。その表情は私からは見えない。見えないがきっと、真剣な表情でもしているのだろう。私が望んだ夢の中の佐伯、なら。

 いつしか何も居心地のいい夢はここになっていた。母の胸の中よりも、高く飛ぶ空のかなたよりも、大自然の静寂よりも、土のぬくもりよりも、ここが一番胸を落ち着かせた。ここに満ちているのは悲しい愛情だ。後悔と贖罪に満ちた祈りが、この部屋には溢れている。

(佐伯)

 もしも、本当のお前が、こうであったなら。

 私達は違う道を歩めただろうか?

 胸の中で語る。

 けれど、その答えのように胸の中に還ってきたのは、先ほど感じた現実への恐怖だった。

 「う、う……」

 喉からうめきが小さく漏れる。微かに、空気の束が押し上げられるように。佐伯はそれを耳にすると、私を覗き込んだ。

「御堂さん?」

 視界に佐伯の姿がまた入ってきて、ようやく私は安堵する。心地よい。ここは、私を傷つけたりはしない場所だ。

 佐伯の色素の薄い瞳はしばらく何かを探りとろうとするように私をまじまじと見たが、私にそれ以上の反応がないことに気付いてかその瞳をそらして私から離れた。

「ごはん。用意してきますね」

そう言って立ち上がって去っていく。私より幾分熱い体温が失われたことに悲しみを覚えたが、それでも立ち上がった佐伯はどこかに消える訳ではなく私のために食事を作るのだと知っていたから怖くは無かった。大丈夫だ。ここは、夢の続きでしかない。だから、私にとって不都合なことなど、何も起こりはしない。分かっている。佐伯は毎日、噛む力のない私のために柔らかく嚥下しやすい食事を作る。何もかもは細かく刻まれていて、野菜や肉などの栄養価がよく考えられている。はじめのうちはパンなども出てきていたが、ぱさぱさとしていて飲み込みにくいことが分かってからは、柔らかく炊いた米に変わった。休みの日以外は一日二食しか食べることがないが、一切の活動を行っていないから基礎代謝を少し上回る程度の食べ物しか私の口に運ばれることはない。私が以前口にしていたようなイタリアンやフレンチなどのケータリングの味はもう忘れてしまった。今食べている介護食のような食事も、味までは私に届いてこない。せいぜい、噛みにくいとか、噛むとざくざくと耳の中で音が鳴るとかそういうことまでしか伝わらない。それでも、生暖かく作られたそれらの食事は、私の腹に落ちれば多少のぬくもりを運んだ。飲み物は、ぬるめの日本茶か、もしくは野菜ジュースの類が多く、アルコールは一度も摂取していない。ワインが昔好きだったが、ワインは佐伯に薬を仕込まれたあの日以来、吐き気のする記憶と結びついてしまい、一度も飲もうと思わなかった。私が飲みたいと思わないものを、夢の中の佐伯が提供する訳はなく、ワインセラーの中のワインは、私と同じように決められた温度の中で、眠りについたままでいる。

 「お待たせしました」

  白いシャツを腕まくりした佐伯が、ソファへと食事を運んでくる音が聞こえる。それが何なのかが、私の視界に触れることはまれだから、あまりはっきりとは分からない。けれど、きっと優しく薄ぼんやりとした味がするに違いない。それを思い浮かべると、何故か胸の中にじんわりと涙が滲むような気持ちになった。塩辛い。けれど、嫌ではない、甘酸っぱいほどの水が自分の心を浸していく。私は今、佐伯が運ぶ食べ物に満たされようとしている。その事実が、どうにも私の琴線に触れる。佐伯の手が、私のために作られた食べ物を掬い上げる。まるで、佐伯自身の端切れを掬い上げて私の中に落とし込むように思えた。それは嫌ではなかった。腹のうちに落ちて私の血肉になればいいと思った。そうなればいい。暖かく、私を温めてそうして私の中にいつまでも住んでいるといい。私が目覚めないでいいように、私の瞳を静かにその手で覆い隠して居ればいい。

私は唇の先に当てられたスプーンを受け入れるために、静かに息を吸った。

  

これは夢だ。

現実ではない、私の頭の中だけにある、とてもよく出来た都合のいい世界。

そして君もまた、私のために出来たよく出来たまぼろし。

だからこそ私は思った。

 

(どうやら、君が、好きだ)

 

夢よ。このまま覚めないでくれと、祈るくらいには。

 

 

 

私は、闇夜を一人全速力で走っていた。ハァ、ハァと自分が吐く荒い息の音だけが、耳に繰り返し繰り返し聞こえてくる。余りの寒さに耳は赤く腫れあがり、冷たくて千切れそうになっている。頬を、手を、寒さが冷たくぶつかっては、肌を切り裂いていく。暗闇は深く、私は自分がどこを走っているのかすら分からない。けれど、けしてそこは宇宙などではなく、なにやら高い壁に囲まれた迷路のような路地だった。吸い込む息は冷たく、肺を痛めつける。ゴホゴホと咳き込んではまた、酸素が足りなくなって大きく息を吸い込んで、そうしてまた闇の中をひた走った。私を、何かが追いかけている。捕まってはならない。捕まったら、私はいなくなってしまう。消えて、泡のようにこの闇夜に飲まれ、溶けてしまう。そんな強迫観念に追われるようにして、私は後ろを振り返ることも出来ずに、全速力で走り続けた。普段、そこまで走ることなどないから、足がもつれる。こけそうになるが、それを必死に右足をぐっと踏み込んでなんとか持ちこたえて体勢を立て直した。筋肉が、急な負荷に悲鳴を上げる。それでも、私が止まれば止まった分だけ、背中に掴みかかろうと追いかけてくるものが近づいてくるから、私は立ち止まることは出来ない。足の筋肉が、ぶちぶちと音を立てて切れるようだ。酸素も糖も足りない頭がくらくらと、意識を途切れさせようとする。それでも頭を振って、また前を向いて走る。わき腹はとっくにしくしくと痛んでいる。左手をそっと守るようにそこに添えて、それでも足を止めることは出来ない。私を突き動かすのは、背中を湧き上がる恐怖だ。走る先に、希望がある訳ではないが、後ろに、絶望が口をあけて私に襲い掛かるのは分かる。だから、走らなくてはならない。

逃げる。

どこへ?

逃げる先などない。ここは真っ暗闇の中だ。前にも絶望は待ち構えているかもしれない。

それでも、この、後ろに迫る息遣いさえ聞こえる恐怖から逃げなくては。

逃げ切らなくては。

私が、居なくなる。

私が。

  腹の底から、恐怖が塊となって喉を逆向きに上がってくる。口を塞ごうとするが、その塊は私の底からせり上がり、喉の下からじわじわと私の口へと上がっていく。

  恐怖の沸点が超えそうな境目で、嘔吐感が何度も何度も沸いてくる。それでも胃の中には何も入っていないから、何も吐き出すことは出来ず、げえげえと何度もえずく。息が吸えない苦しさに、目に涙が滲む。足が、またもつれる。噛み締めた口ががたがたとなり、口内を噛んで血の味が口の中に広がっていく。

嫌だ。

嫌だ。

「助けて」叫ぼうとするが、助けを求められる相手などどこにもいないと分かっている。それでも叫ぶ。「たすけて」「たすけて」「たすけて、くれ」

絶叫は、闇夜に溶けて、誰の元にも届かない。ああもう駄目だ。駄目だ。食われる。けれどそれでも私はウサギのようには、その身を恐怖に委ねることが出来なかった。

身体が、ついにちぎれる。

足は、折れてぐにゃりと曲がって私のものではないようにもう動かない。苦しさに掻き毟った喉は、血に染まりどろどろにぐにゃぐにゃに赤い肉をさらしている。喉には、恐怖が詰まって息をすることも出来なくなった。

 迫り来る追っ手が、私の側へと音も立てずに忍び寄る。覆いかぶさるような動きが背筋を這う。掻き毟り過ぎて、喉に孔があき、ひゅーひゅーと音を立てた。

 それでも私は振り返り、そうして追い詰められた人間の最後の最後の足掻きのように、いつのまにか手に持ったナイフを振り上げて、そうして闇そのものへと突きたてた。

 最後に、目にしたのは、ナイフが闇へと吸い込まれて、そうして私の腕が、無くなる、その瞬間。

 

 

 

「ああああ」

 我に返ったのは、自分の喉から溢れて出た恐怖の叫びが耳に届いたからだった。ハァハァと、荒い息は先ほどまで見ていた夢と同じだった。身を切られるほどの寒さにさらされていたはずの身体は、自分の寝汗でびっしょりだった。冷えた汗が体温を下げていたらしい。粉々に砕けてしまったはずの身体は、私の首の下についていた。首を折り曲げて、自分の手を見る。まだ、私の手は私のうちに存在した。感覚が、繋がっている。微かな、本当に微かな風の揺らぎを、掌は感じ取っている。私と手は、まだ同じ一個体のままだ。動悸は激しく、あまりの煩さに私はそのほかの音を聞くことが出来ないでいた。

  少しずつ、少しずつその音が薄れていき、自分の呼吸を呼吸と意識せずに居られるようになる頃、ようやく回りが見えてきた。ここは、私の部屋だ。ここは。私の、「本当の」、部屋。

 

悪夢を、見た。

 

それは、平常であれば当たり前のこと。私が、こうなる前の日常にだって、悪夢を見ることはあった。何かに追われて、逃げ惑う夢を見たこともある。もっと悲惨に、何かに殺される夢を見たことだってある。断末魔の悲鳴を上げて、私が死んでいき、血が流れ身体がどんどんと冷たくなるその様子を味わったことすらある。けれどそれは、たわいもない日常の些細な揺らぎ。誰にでもある、たわいも無い小さなつまずきの一つ。けれど。私の夢は。私が今見る夢は、現実という悲惨な悪夢から逃れるための、防衛手段だったはずだ。私を守るためにあったはずのそれが、悪夢に変わることなど有り得ない。有り得ないはずなのに、今私の身体をぐっしょりと濡らす汗は、気持ち悪く皮膚へと張り付いている。心臓の鼓動は、いまだに平常値には戻らない。あまりに張り詰めた空気に息苦しくなり、大きくため息をついた。

悪夢から、覚めた。

ということは、またここは現実なのだろう。また、現実へと帰って来てしまった。ずっと、ずっと。私の体感ではすでに一年や二年が経つのではないかというほど長い間夢の中を漂っていられたのに、もう二度と帰ることはないと思っていたのに、短期間に二度も、現実へと意識が帰ってしまっている。幸いにして佐伯はここに居ないが、部屋はすでに暗いからいつ帰ってくるともしれない。私の精神もまた、現実へと還り始めているのか。あの、夢の始まりの前にあった絶望へと還りはじめているのか、精神の糸が切れた時には何も感じなかった佐伯の存在が帰ってくることを、また、「怖い」と思った。

夢は私を癒してくれた。私を優しく包み込み、壊れて、千切れてしまった私を、人間へと帰してくれようとしている。それはまるで、海の浄化作用のようだった。汚染された水を、大いなる生き物の母が生きる水へと還していくように、私にとっての自浄作用だった。水はそうして、大きな流れへと還っていく。けれど、私はここに帰ってはならないのだ。帰ってしまえば、また、「本物の」佐伯がそこには居る。また、私は悲惨に甚振られて、今度こそ死に絶えてしまうかもしれない。今度こそ、私は、私ではいられなくなるかもしれない。あの時、私はすでにもう崖の上で背中を向けて、足を空へと踏み出そうとしていたのだ。次にあの手が伸びてくれば、今度こそ私は突き落とされるかもしれない。絶望にかられて、逆に佐伯を……してしまうかもしれない。もう、世界に私の居場所は存在しない。ここに居ても、私は真綿で首を絞められるように、じわじわとくびり殺されるだけなのだ。

ここに、いては、ならない。

 

かちゃり。

ソファに座り、いつのまにかまたぴくりとも動かなくなった私の耳に、ドアノブを開ける音が、小さく響いた。

 

 

 

音が聞こえる。

それは、幾度も幾度も繰り返してきた日常。現実でも、夢の中でも、私達の日々のはじまりはドアノブが回る音だった。佐伯がいつものように部屋のライトをつける。暗闇が迫っていた部屋が、途端に明るくその形を取り戻す。それは、あまりにも慣れ親しんだ光景で、ゆっくりと部屋に入ってくるその足音も、もしかしたらこれは夢なのかもしれないと思わせるほどにいつもと同じだった。私はじっと、身を潜めて、佐伯がどういう行動に出るのかを見守る。私を、甚振るだろうか。それとも、私を優しく抱きしめるだろうか。

一度自覚が訪れた後では、ああやって私を優しく抱きしめる腕に、どうしようもなく焦がれた。今、部屋に入ってきたのが夢の中の登場人物であればいい。ドアノブをあける音を境に、また私は夢の中へと逃げ込むことが出来たのならどれだけいいか。そうであったなら、私はこの身をまた、「佐伯」に預けて優しい時間を感受するだろう。味気ない食事を作り、私を必死に生かそうとする男の腕の中で、じっと目を閉じてもう二度と目が覚めないようにと祈るだろう。

私はもう、自分が居るのが現実なのか、夢の中なのかをその最中に知ることが出来ないほどにおかしくなってしまった。だから、佐伯がどういう行動をおこすのかを、じっと待っている。私がこれからどうすべきなのかを、知るために。これが夢でありますように、と祈りながら。

視界の先には天井。天井にいくつも埋め込まれたライトと、天井を這う柱を私は見上げている。けれど、その耳は、じっと佐伯の行動を捉えようと研ぎ澄ましている。

「今戻りました。ひさしぶりに飲みましょうか」

聞こえてきたその声は、優しかった。

帰って、来られたのだろうか。

優しく、老人を労わるような「彼」の声に聞こえた。何もかもを諦めながらそれでも期待することを辞められない人間の声に聞こえた。安堵して、私は目を、閉じようとした。また、繰り返しがはじまるのだと思い、唇を笑みの形に結ぼうとさえした。

けれど、鈍い脳に遅れて届いた言葉が、ようやく像を結ぶ。

(ひさしぶりに飲みましょうか)

言われた言葉に、ようやく気付いた。飲む。……何を?

幾度も幾度も何百と繰り返された夢の中で、佐伯は一度も私にアルコールを飲ませたことなどなかった。ワインは、あの日以来一度も飲んでいない。あの日、ワインは私を酔わせる上質な贅沢から、私を陥れるための罠へとその存在を変えた。私はその赤い液体に毒が入っているような気がして、怖くて仕方が無くなった。いつ、どこで、佐伯がこっそりとワインに何かを仕込んだかもしれない。これもまた、私の自由を奪うかもしれない。私がおかしくなるような薬を仕込んだかもしれない。そう思えば、ワインはすでに蛇が運んできた知恵の実のように、私を楽園から突き落とす、毒にしか感じられなくなった。

佐伯は、私を抱きしめることなく、そのままキッチンの奥へと歩いていった。何やら、紙袋を持っている音もする。天井を見上げたままの私では、佐伯が何をしようとしているのかは分からない。分からないが、それが良くないことのように感じて、私はぞっとした。

 

(これは、夢では、ない)

 

 

 

認めたくない事実に、全身にまた恐怖が溢れ出てくる。これは、夢ではない。愛おしい「彼」との生活ではなく、これは現実だ。佐伯が居る。前にも突然現実へと帰ったことはあったが、それは佐伯の居ない、一人きりの時間だった。けれど、今私の家のキッチンへと入っていった男は、私を監禁し散々に嬲り壊した、あの「佐伯克哉」だ。その佐伯が私の家へと入ってきた。そうして、私の家のキッチンへと我が物顔で歩いて行く。まるで日常のような顔をして。私の家なのに、自分のモノのような顔をして。そうして、猫なで声で、「彼」が帰ってきたのだと私を騙そうとして、そうしてキッチンの奥へとワインを持って入っていく。

また、私に何か飲ませる魂胆なのだろう。

久しぶりに私にワインを飲ませる、そんなふりをして、また私に何か私を壊す薬を仕込むつもりなのだろう。紙袋の中には、その「何か」の薬が入っているのに違いない。

恐ろしく冷えた頭は、次々と想像を膨らませる。そうに違いない。夢の外の佐伯はいつもそうやって、私を騙し、追い詰め、私を壊そうとしていた。自分に都合のいいように作り変えようとしていた。

体中を恐怖が巡る。また、吐き気が込み上げる。頭痛がする。耳鳴りが、何もかもを覆うほどにごうごうと響きだす。全身を覆おう寒気が、悪い風邪のように私を痛めつける。痙攣のように、止められないほどに身体が震えだす。帰ってはならない時間に、自分が帰ってきてしまったことを知る。

(たすけて)

叫ぶ相手は、いつものような暗闇ではない。脳裏に浮かぶのは、あの、優しい。夢の中にだけ存在した、私の愛しい男。私だけのために生きる、私という監獄の中で生きる悲しい男。

(たすけて)

脳裏に浮かぶ男は、いつものように困ったような顔をしている。それでも、私に手を伸ばす。私を抱きしめようと。私に何かを与えようと。愛情をその身いっぱいに湛えて、私を救い出そうとしている。

目を閉じるだけでその光景がありありと脳裏に浮かぶ。それは、今もなおさほど遠くはないところで私を待っている。その夢の中に帰ろうと、私は恐怖に震えながらもなんとか唇を噛み締めて耐えようとした。またその夢の中に帰ろうと、必死に心を落ち着かせようとした。

「すぐに用意します」

また、声が聞こえて我に返る。夢の中の優しい顔が、その途端に爆ぜて消える。現実の声にかき消されて、その姿はあっけなく霧散した。消されてしまった。佐伯に。私の優しい夢が、消されてしまった。

手を伸ばした姿が見えた、のに。

 

佐伯は私を振り返らずに、そのまま奥へ行き何かをしているようだ。それを追おうと、顔が、油の切れ掛かった機械のように軋みながら横を向く。キッチンの奥で何かをしているらしいその姿はよく見えなかった。

(消えてしまった)

優しいその姿が。私の大事な夢が。現実に紛れて。佐伯に壊されて。たとえそれが夢に過ぎないと分かっていても、私にはそのひと時は大事だった。

(佐伯、)

それでも私からすべてを奪うのか。何もかもを失って、縋りつくように見た、些細な夢さえも。現実に引き戻して、からからに乾いた私から、それでもまた何かを奪おうというのか。

身体の奥の恐怖が、何かを身体の奥からどんどんと引きずり出していく。じわじわと、登ってくるように、私の背筋を這い回る。

あの日聞こえて。

これ以上聞かないですむように、と心を閉ざしたはずの声が、

また私の耳元で高らかに鳴る。もう、耳を塞ぐことは出来ない。聞こえてしまった。私の心に落ちてしまった。

 

『殺される、くらいなら』

 

 

 

…………殺して、しまえばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

聞きたくなくて、最後の最後までそれでも認めたくなくて、そうして私はここから逃げた。私の心にこんなに純粋に簡単に単純に、そんな発想が生まれたことを私は認めたくなかった。私は佐伯を殺したかった。けれど、殺したくなかった。何故殺したくなかったのかは分からない。佐伯の中にも、もしかしたら何かがあるんじゃないかと。私をこうした理由があったんじゃないだろうかと。そう思って。一番はじめに見た幻なのか、現実なのか、夢なのか分からない記憶。意識を失い、倒れそうになる私を優しく包んだ腕の記憶。私はいつまでも、それに縋りついて。あの日の佐伯の姿に、何かを感じ取ろうとして。自分がこうして自分から引き剥がされて変えられてゆくことに、何かしらの理由をつけようとして。だから私は殺したくなかった。恐怖は何度も、私に囁いた。このままなら殺される。だから、殺さなくてはならない。殺してしまえ。生き物が、恐怖にさらされて選ぶ道はたった二つ。諦めて捕食されることを選ぶか。それとも、反撃して、殺すか。だからお前は殺さなくてはならない。死にたくないと思うなら、殺す側に回らなくてはならない。私を殺そうとする目の前の男を。殺さなくてはならない。殺さなくてはならない。殺さなくてはならない。何度も何度も強く囁くその声に操られて佐伯を殺してしまいたくなくて、私は私であることを辞めた。それは私の中にあった憐憫なのか、愛情なのか、単なる一市民として刷り込まれた法律なのかは分からない。けれど私は佐伯を殺したくなかった。殺したくなかったから私を壊した。壊して逃げた。

 

けれど佐伯。

もう無理だ。

お前は私から、逃げ込むための些細な夢さえも壊そうとする。

私の中に残っていた、最後の愛おしい場所すらも、お前が壊してしまうというならば。

私はあの、優しい夢に帰るために、

 

今度こそお前を殺さなくては、ならない。

逃げたあの地平に、今、たどり着いたというならば、

あの日先送りにしたことを、今度こそ果たさなくてはならない。

 

 

 

 

 

出来る限り静かに。

静かに。

今まで一切身動きの取れなかった身体が、悲鳴を上げるがそれでも一歩一歩歩く。佐伯は私に気付かないまま、ワインを飲むためにグラスを取り出している。グラスがどこにあるか、探すこともしなかった。どこに何があるのか、全てを知っているかのように、その動きには無駄がない。

やはり。

私が夢の中に居たその間も、この男はずっとここに居て、私をいいように犯しては楽しんでいたのだろうと思う。この男は結局最後までそういう男だ。私が壊れて佐伯のいいようになるその最後の瞬間まで、私をいたぶることをやめない。

(恐怖で支配してやりますよ)

遠い遠い記憶の果てにそう言われてから今までずっと、ずっと言った言葉の通り、私を支配し続けてきたのだろう。甘い記憶をたった一つ投げ込むだけで、私に復讐されないように巧妙に罠を張って。そうして今まで気の遠くなるような時間を、私の家で主のような顔をして私に成り代わっていたのだろう。この男は結局最後の最後まで、変わることなく私の敵だった。その思いは何故か安堵をもたらした。この男は敵だった。私はもう何も思い悩むことはない。何も未練を感じることもない。あの日から随分と遠回りをしたが、あとはあの日聞こえた声に、答えるだけでいい。長い間拘束され動くことの無かった身体は酷く重く、一歩一歩の歩みにも身体はぐらぐらと揺れたが、これが最後だと思えば気力で力を振り絞ることは出来た。

 

「…………ずっと、そこにいたのか?」

 

問いかけた声は、かすれて、酷く小さい。

 その言葉を聞いた佐伯が、ぴくりと震えて、私のほうを向こうと、身体をねじる。その瞳は、真ん丸く、見開かれていて、その黒さの中に小さく私が映りこんだ。私がどんな顔をしているかは見えないが、きっと、笑ってしまうくらい酷い顔をしているのだろう。自分が支配下に置いたはずの人間が、こうして意思を持って立ち上がったことがそんなに驚きなのか、佐伯は固まったまま一歩も動かない。その姿はまるで、佐伯のほうこそ捕食者に見えた。牙を剥く獣を目の前にしたウサギのように、何も出来ないままに死んでいくもののような。

  今日、私とお前の立場は逆転する。

  私の手が、自分の物ではないように思えた。それは、鉛のように重く、けれど磁石に吸い寄せられるように勝手に佐伯の首元を目指す。ずっと重力のままに身体にぶら下がっていただけの腕は、それだけの動きにも悲鳴を上げた。身体が、もう人としての機能をろくに果たしてくれない。けれどそれでもいい。今日で終わりだ。この身体も、目の前の敵も、現実という枷も何もかもが今日でお別れだ。だからどれほどに身体が軋もうとも悲鳴を上げようとも、夢の中のように腕がぶちぶちと引き千切れて消えようとも構わない。今日、この現実に、置き土産を残すことが出来るならそれでかまわない。

  手が、ようやく佐伯の喉元に届く。以前は身長も体型も似たようなものだったが、痩せ衰えた私とは違い、佐伯は私より七つ年下の正常に機能する人間の暖かさを、肉を持っていた。手の平が、ゆっくりと佐伯の首を掴む。薄皮の下で薄い脂肪がぐにゃりと動く。喉仏や、リンパの線の形までも手の平に伝わる。襟足の髪は、思いのほかさらさらと柔らかい。時間はまるで永遠のように遅。佐伯は、驚いた顔のままで私がすることをただ見守っていた。この男は、私の天敵でも、虎でも、ライオンでも無かった。私もまた、インパラでも、ゼブラでも、兎でも無かった。私達はただ二人の人間でしかなかった。だから、佐伯が私を支配しようとすれば私は抵抗する。そうして私が佐伯を殺そうとした時、佐伯はこうして、反撃するでもなく、ただ私がすることを見守るしかない。仏のために炎へ飛び込む兎のように。殉教者のように。車にひかれる前の人間のように。己に何が起こっているのかわからないままに、立ちすくむしか出来ない。佐伯は、ただの、人間だ。人間だ。人間だ。

  ゆっくりゆっくりと、手の力を込めていく。私の全身に残る微かなエネルギーを全てその手に込める。佐伯の喉から、空気の塊が押し出されて音を立てる。力を込めれば込めるほど、手の平には血がどくどくと脈打とうとする響きが生々しく感じられた。佐伯の手が、私の手へと重なる。引き離そうとするのかと思い焦りを感じたが、その手は私の手へと触れる。そうしてそのまま包み込むように重ねられる。手の平は私よりもずっと温かい。

ぎり、ぎり、ぎり、と。

佐伯の首が締め上げられる音が聞こえたような気さえした。

佐伯の顔は、赤く、赤く染まっていく。唇が、ぱくぱくと空気を吸おうとしているのか、何度か動いた。まるで、何かを伝えようとするように、微かに動く。瞳は、私を見つめたままだ。兎のように赤く染まった瞳からは、静かに涙がこぼれた。その瞳もまた、私に何かを伝えているようだ。けれど、私には何も聞こえない。首を絞めるのに必死で、その手に届く動悸と、自分の心臓の動悸の音が他のすべての音をかき消してしまう。少しでも緩めれば、私の手の上に重ねられた佐伯の手に引き剥がされてしまう気がして、私は何の抵抗もしない男をそれでもぎりぎりと力をかけ続けた。ぎりぎりのところまで無抵抗だった手が、ついには私の手に爪を立てて断末魔の力を込める。爪が食い込んだ手の甲に血が滲む。渾身の力は、だがすでにもう遅く、私の手は力を込めすぎてもう自分でも佐伯の喉から引き剥がせないのではないかと思った。

 

  やがて。

  私の手の上に重ねられた手が、だらんと力なく下がる。私の鼓動の音はうるさいほどに鳴り響いているのに、手のうちに感じる鼓動が、どんどんと、力なく。少しずつ、絶えて。目を開けたままの佐伯の唇が、動くことを止めて。手に、人間の肉体の重みが圧し掛かって。

 

 

 

  そうして私は、人殺しになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  佐伯だった肉体をキッチンに残したまま、私は最後の力を振り絞り、床を這いずった。目指すは、リビングにあるソファ。夢の中で、佐伯は私を残して家を出る時いつもソファかベッドに私を据えた。私はソファに座って佐伯を待つほうが好きだった。ソファに一日座り、血が巡らなくなった私の体勢を変えるために佐伯が私をかかえるために抱きかかえる。そうやって佐伯が帰ってきたことを知るのが好きだった。だからなんとしても、夢に還る時はソファで迎えたかった。だいたい、佐伯が家に帰ってきて、床の上で私を見つけたなら、酷く慌ててそうして自分を責めてしまうだろう。だから私は何事も無かったかのような顔をして、ソファに横たわっていなくてはならない。全身の力を使い果たした身体は、疲労と痛みになかなか思うようには動いてくれない。手の平にはまだ、先ほどまでの生き物が死ぬ時の音がべったりと張り付いている。けれど、それでも私は帰らなくてはならない。帰るために、私はこんな大それたことをしたのだ。帰りたい。帰りたい。帰って、いつものように佐伯をここで迎えたい。

(ただいま、帰りました)

優しい声を。ぬくもりを。私を守り、包み込む、優しい優しい懺悔を。

暖かい春の海のように、暖かく全身を包み込む、生きる水を。

眩い光なんかよりも、今はただ、闇の向こうにある安寧を。

私の作り上げた檻の中で、私と共に生きていってくれた、愛おしい男のところに、行って。

そうして、もう二度と、こんな悲しい現実には帰らない。

もう、私は、帰らない。

 

ようやくたどり着いたのは、一体どれほどの時がたった後だったか。ようやく私はその身をソファへと横たえて、瞳を閉じる。もう一度帰ろうと。ようやく、眠りを妨げるものを排除して、後はただこの疲労のままに訪れるであろう眠りを待った。

船の上から、ようやく海の底へと帰れた魚のように、その身が落ちるままに、静かに預けて。

 

なのに、世界は暗いままだ。

部屋のライトをつけて帰ってくるはずの男は、いつまで経っても帰ってこない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手の平に。佐伯が死ぬ時の鼓動がいつまでも残っている。

手の甲に、縋りついた爪の尋常ではない強い力が残した傷の痛みが残っている。

耳には、あの時骸へと帰った佐伯がどさりと床に落ちる音が。

瞼の裏では、唇が、何かを告げようと、動いている。

ああ、あの時は聞こえなかった言葉が、聞こえてくる。

今更になって、音にはならなかったはずの声が聞こえてくる。

真っ暗闇の中、愛おしい男の代わりに、私が殺した男が言う。

涙を流しながら、たった一言。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ごめん、なさい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐伯?

ここはもう夢の中のはずなのに、お前が見えない。

真っ暗闇を、電球の明かりをつけてお前が追い払ってくれないから、いつまで経っても暗いままだ。

どこにいった?

佐伯?

なあ、佐伯。

もう、私を邪魔をするものはいないはずなのに、何故か目から零れ落ちる涙でお前が見えない。お前が見えないから、いつまでも目の奥には今殺した男の顔だけがぼんやりと浮かび上がっている。浮かび上がって、まるでお前のような顔をして、私に御免なさいという。消え果たはずの感情が、突然身体の奥から絶望と共に吹き荒れる。あの日死んだはずの精神が、こんな時に引き千切られる痛みに叫びだす。何がそんなに怖いというのか。何がそんなに痛いというのか。何をそんなに絶望しているのか。未だ私の脳はそれを上手く整理出来ない。感情は荒れ狂い過ぎて、その中で鳴る自分の声が届かない。ソファに横たわり目を閉じて、ここから逃げようとするが、あの日あんなに簡単に達成した逃避は、今日に限って成功しない。何故だ。何故、帰れない。何故、ここは暗い?佐伯?何故君は帰ってこない?佐伯?佐伯?佐伯?感情が、心を揺らしすぎて、吐き気が込み上げてくる。いつのまにか流れ出した涙は止まることがない。何に泣いているのか分からないのに、閉じたままの瞳から、涙が溢れて溢れて、私の中の海が零れ出て行ってしまう。私の世界が、流れ去ってしまう。世界が暗い。なのに目のうちは、赤色に染まっている。先ほど見た赤色が目のうちで私の視界を赤く染める。耳のうちでは先ほど聞こえた声がどんどんとボリュームを上げて響きだす。私に何かを伝えようと何度も何度も繰り返す。その意味に、気付きたくないのに頭が一つの仮定を浮かび上がらせる。

やがて、訪れる、疑問。気付いてはならない、一つの疑問。

 

 

 

佐伯。

佐伯。

佐伯?

そんなことは無いと思うが、佐伯?

佐伯?

さえき?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………ずっと、そこにいたのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の海が零れていく。零れて、零れて、私は広大な砂漠にたった一人、乾いて、必死に跳ねている。歪んだ形にしかものを見れない私の瞳にも、永遠に続く海だと思ったものが、ただの水槽だったことが分かり。

私はその絶望の中、夢見ることすら出来ずに、息耐えた。

 

 

 

 

 

 

 



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